第6章 俺は絶対に彼に劣らない、試してみるか?

ナイトグロウバー。

爆音が耳を叩き、相馬蛍は明らかに場に馴染めず、ボックス席に沈み込んでいた。艶めく紅い唇に煙草をくわえたまま、火をつけるべきか迷っている。

江口霊はというと、ここが自分の居場所だと言わんばかりに酒瓶を片手に、もうとっくにフロアへ紛れ込んでいた。

目の前をせわしなく横切る影。気まぐれに瞬くネオン。どれもこれも、蛍の意識をふわりと霞ませる。

結局、唇から煙草を外し、ひとりで赤ワインを注いだ。

グラスを持ち上げ、口をつけようとした、そのとき。

頭上から、澄んだ声が落ちてきた。

「お嬢さん、お一人ですか?」

相馬蛍が顔を上げると、整った顔立ちの若い男が立っていた。彼女は礼儀だけは崩さず、首を横に振る。

「いいえ。友だちが、あそこに」

男は彼女の指した先を見て、どこか図々しい笑みを浮かべた。

「友だち、俺の友だちといい感じに遊んでるみたいだし。じゃあ、俺が付き合って飲もうか?」

そう言うなり、遠慮もなく腰を下ろす。蛍も止めなかった。顔は悪くないし、江口霊はこういうのが大好物だ。

「俺、近藤正。美女さんは?」

男は自分のグラスで彼女のワイングラスを軽く鳴らし、やけに人懐こい調子で続ける。

「友だちにならない?」

*

三階の手すり。

すらりと背の高い男が、片手をスラックスのポケットに突っ込み、視線だけを落としてその光景を眺めていた。

赤いドレスの女。ひときわ目立つ。

ぱっと見は、少し水商売めいた匂いすらする。

一瞥、一笑。どこをどう見れば、戸籍上の妻と重なるのか。

五年前、彼は離婚協議書にサインしていない。

だから彼の中では、いまも――夫婦だ。

真田辰則は確信していた。あれは相馬蛍だ、と。

こんな偶然があるはずがない。

数年も姿を消して、突然現れる。目的がないわけがない。

*

相馬蛍は目を細め、近藤正に視線を落とした。紅い唇を吊り上げ、笑う。

「相馬蛍。……私、口説いてるの?」

たったそれだけで、男の心は揺れた。

眉目に色気が滲み、なのにどこか青さも残している。

相馬蛍……?

こんな偶然――いや、同姓同名なんていくらでもいる。

近藤正は喉仏を上下させ、これ以上考えるのをやめた。彼女は辰則さんの女だ。自分はただ、義姉さんを守れと言われているだけ――。

蛍は、男が黙ったまま自分を見つめ続けているのを面白がるように、わずかに身を乗り出す。

「近藤さん。ここ、うるさいし……静かなところで話さない?」

白く細い指が、開いた襟元にするりと入り込む。距離が一気に詰まり、枯れた薔薇の香水が鼻腔を刺した。

「……いいよ。場所、変えよう」

近藤正の呼吸が詰まる。義姉さんのことなど頭から吹き飛んだ。辰則さんにはもう新しい義姉さんがいる。なら、自分が他の女を欲しがって何が悪い――。

二人が立ち上がった、その瞬間。

三階の廊下にいた男は、すでに踵を返し、階段へ向かっていた。

相馬蛍はほんの僅かに瞼を持ち上げ、見覚えのある背中を捉える。紅い唇が、かすかに弧を描いた。

*

喧騒を離れ、近藤正が連れてきたのは赤いスポーツカーの前だった。キーを揺らし、女の赤いドレスを上から下まで眺めて、不敵に笑う。

「どうりで気が合うわけだ。天が決めたんだよ。あんたが俺の腕の中に落ちるって」

蛍は風に煽られた髪を耳にかけ、珍しく機嫌よさそうに目を細める。

「近藤さん。私、何人目?」

近藤正が本当のことを言えるはずがない。自分はまだ、そういう経験だって――。

彼は気まずそうに笑い、誤魔化すように言った。

「相馬嬢、そんなの気にしなくていいだろ。とにかく今夜は、満足させてやるから……」

言い終える前に、大きな影がぬっと現れた。

低い声が、遠くから近づいてくる。

「どんな車にでも乗るな」

――やっぱり、来た。

相馬蛍は横目で男を見た。表情は冷えきっている。

「へえ。あなた、近藤さんの知り合い?」

夜の闇の中、赤いドレスと雪のような肌が、毒々しいほど鮮烈に映える。

近藤正は唇を引き結び、わずかに怯えた。

「辰則さん……」

真田辰則は何事もない顔で二人の前に立つと、慣れた手つきで女の腰を抱いた。

今夜のドレスは腰の脇がくり抜かれている。ちょうどそこに、熱い掌がぴたりと当たる。

その感触が、荒れ狂う記憶を引きずり上げた。

眩暈のような、甘い濁り。乱れて、曖昧で。

蛍は表に出さず、見慣れたはずの、なのに知らない目と視線をぶつける。声は淡い。

「……知り合いなの?」

辰則さんの無言の圧に、近藤正は一瞬で折れた。

「じゃ、じゃあ俺、用事あるんで。二人でどうぞ」

そう言い捨てると、逃げるように消えた。

相馬蛍は冷たく言う。

「放して」

真田辰則の目が沈む。次の瞬間、力任せに引き寄せられ、もう片方の腕で抱え込まれた。

「ん? 遊びたいんだろ。俺はどうだ? あいつより悪くない。試してみるか?」

相馬蛍は、途方もない冗談を聞いたみたいに、男の熱に押しつけられたまま声を上げて笑った。

あの真田辰則が、こんな台詞を吐くなんて。

辰則は彼女の目を覗き込み、耳の後ろをざらついた指で撫でる。

強すぎず、弱すぎず。狙い澄ました力加減。

案の定、女の身体が小さく震えた。

「……そんなに可笑しいか?」

「啪!」

相馬蛍は、自分が甘い渦に引きずり込まれかけていることに気づき、怒りのまま彼の足を踏みつけた。続けて、思い切り平手を叩き込む。

「放して!」

手のひらがじんと痺れる。自分が彼に手を上げるなんて、蛍自身がいちばん信じられなかった。

五年前なら、絶対にできない。いつだって顔色を窺い、怒らせないように、必死で媚びて――。

けれど、どれだけ尽くしても、何ひとつ変わらなかった。

男は放した。怒りもしない。からかうような声の奥に、言葉にできない何かを沈めて。

「相馬嬢。そんなに怒るなよ。俺が気に入らないなら、そう言えばいい。まさか俺が、無理やり襲うとでも?」

相馬蛍は半歩距離を取り、相変わらず冷たい顔で言い放つ。

「あなたが先に節度を失ったから殴られた。それだけ。私、あなたに興味ないの。これで終わり」

踵を返し、そのまま歩き出す。

細い背中が光と影に溶けて消えるまで、真田辰則は動けなかった。

やがて我に返り、灯りの薄い場所で煙草に火をつける。立ちのぼる煙が、視界をじわじわ曇らせた。

五年前――もし、あと数分早く帰っていたら。

あれを、止められたのだろうか。

*

翌日。

相馬蛍は真田グループ本社ビルの前に立った。

淡い視線で、見慣れた場所をなぞる。

真田辰則に嫁いだ頃、彼女はまだ大学生だった。昼に時間ができれば、ここへ弁当を届けに来た。

自分の健気さを、いつか彼が見てくれると信じて。

――ただの妄想だった。

それどころか、彼ははっきり言ったのだ。お前を愛することはない、と。

ぼんやりしたままヒールでエントランスを踏み込んだ、その瞬間。

聞き覚えのある声が響いた。

「どうして入れないの! さっきの電話、あなたも聞いたでしょう! 私、ここの社長の奥様なの!」

前のチャプター
次のチャプター