第7章 あの女が言ったこと、記録を取る
相馬蛍は、その怒鳴り声のほうへ視線をやった。
水原初歌――五年ぶりだというのに、どうしてこんなことになっている。
顔には隠しようのない疲れが滲み、かつて真田辰則に向けていた、あの柔らかな笑みはもうどこにもない。人前で平気で怒鳴り散らす姿など、昔、母親に連れられて相馬家へ来て、必死に蛍の父に取り入っていた頃の面影とは程遠かった。
うまくいっていないのか。
それとも、欲しいものを全部手に入れたから、もう取り繕う必要がなくなっただけ――本性が剥き出しになったのか。
受付の女性は明らかに困り果てている。
「先ほどのお電話は切られてしまいまして……こちらも社長から指示を受けておりません。私どもにはお通しする権限がございませんので、どうかこれ以上は……」
それを聞いた水原初歌は、さらにヒートアップした。
「知らない! とにかく入れなさいよ! 私に逆らったら、あんたたち全員ただじゃ済まないから! クビ通知が欲しくないなら、身の程をわきまえなさい!」
受付の女性たちは顔を見合わせ、どう対応すべきか分からず固まる。
相馬蛍は思わず鼻で笑った。
……やっぱり、あのクソ男。
手に入れたら大事にもしない。自分にした仕打ちよりも酷いじゃない。今じゃ会社の玄関すら通さないなんて。
あれだけ「優しくて計算高い女」だったのに。見てみなさい、今はどうだ。下品な罵声を浴びせる姿は、もはやヒステリックな女と呼ぶほうが近い。
こんなのが真田家の奥方だと広まったら、真田グループの面目は丸つぶれだろう。
蛍はこれ以上の見世物に興味もなく、水原初歌の横をすり抜けてカウンターへ進むと、口元だけで微笑んだ。
「お手数をおかけします。本日、真田社長と面会のお約束がございます。お取り次ぎいただけますか」
受付が丁寧に返す。
「恐れ入ります。お名前を頂戴できますでしょうか。こちらで確認いたします」
蛍がバッグから名刺を出そうとした、その瞬間だった。
水原初歌がずかずかと近づき、乱暴に蛍を突き飛ばした。
「――あんたごときが、うちの旦那に会うですって?」
不機嫌の矛先を向ける相手が欲しかったのだろう。突然割り込んできた女が、ちょうどいい。
相馬蛍は細いピンヒールで踏ん張りきれず、よろりと数歩もつれた。腰が横から後ろへ流れ、そのままカウンターの角にぶつかりそうになる。
間一髪、受付の女性が支えてくれたおかげで、無様に転ぶことだけは免れた。
「大丈夫ですか?」
蛍は支えられながら、腰に走る痛みに眉を寄せる。歯を食いしばり、息を整えて言った。
「平気。……エイダです。真田社長にそう伝えて。彼なら、会いに来るわ」
受付の女性がはっとして表情を明るくする。
「エイダ様でしたか! お待ちしておりました。真田社長から昨日、必ず失礼のないようにと申しつけられております」
その一言で、水原初歌の怒りは完全に爆発した。
蔑むような視線が、蛍の頭からつま先までを舐めるように走る。
服も、靴も、バッグも――どれも一流。しかも顔まで腹立たしいほど整っている。
水原初歌の脳裏に、ひとつの結論が叩きつけられた。
――この女、辰則が外で囲ってる女だ。
ここ数年、自分が冷たくあしらわれてきたのも、きっとこいつのせい。
堪えきれず、水原初歌は勢いよく踏み込み、腕を振り上げた。
ぱんっ――。
乾いた音がロビーに響く。
「会いに来る? 何様のつもりよ! どこの女が、私の前でそんな口きいてんの!」
続けざまに吐き捨てる。
「人の旦那に手を出すなんて……泥棒猫!」
ぱんっ――。
さらにもう一発。
蛍の身体がぐらりと揺れた。三発目が振り下ろされる前に、警備員が駆けつけ、錯乱した水原初歌を引き離す。
受付の女性が青ざめて駆け寄る。
「大変申し訳ございません。こちらの不手際でご迷惑を……どうか、こちらへ。先に上へご案内いたします」
相馬蛍は、その光景を静かに見つめたまま、ふっと笑う。受付の女性を宥めるように首を振った。
「いいの。真田グループが私を歓迎しないなら、帰るだけよ」
手を離し、乱れた髪をゆっくり整える。そして去り際、肩越しに微笑んだ。
「真田グループの社長も、この程度なのね。家庭の揉め事ひとつ収められないなんて……会社の器も知れるわ。うちのHJグループとしては、とても評価できない」
言葉は切れ味よく、頬を叩かれた影響など微塵も感じさせない。
「今回の提携は白紙にします。正式な連絡は、こちらから改めて」
受付の女性は泣きそうな顔で、蛍の袖をそっと掴んだ。
「お待ちください……! 真田社長、もう降りてきます。お願いです、行かないでください……!」
だが相馬蛍は足を止めない。大股で真田グループを出ていった。
背後からは水原初歌の罵声が追いかけてくる。聞くに堪えない言葉ばかりだ。
蛍は思う。
……所詮、こんなもの。
真田辰則が、どうして当時こんな女を選んだのか。理解できない。
結局、自分こそが、徹頭徹尾「愛されなかった側」なのだ。どれほど最善を装っても、意味なんてない。
前方に石の車止めがある。蛍は不快感を堪えながら、そこへどさりと腰を下ろした。暑くもないのに、息が詰まる。
慌ててバッグを探り、黒い細長の財布を取り出す。母のものだ。
十一年前、母は自死した――そう聞かされていた。だが後に、この財布の中から一本の録音テープを見つけた。内容を聞いて初めて、母は自殺ではなく、殺された可能性があると知った。
水原初歌に嵌められて海へ落とされる二週間前。母の夢ばかり見るせいで、蛍は相馬家へ戻った。
父は、かつての情が残っていたのかもしれない。母の遺品を捨てず、地下室に鍵をかけて保管していた。埃をかぶった箱の山。その中で、蛍はこの財布を見つけたのだ。
「美人さん、また会ったな」
頭上から突然声が落ちてきて、蛍はびくっと肩を跳ねさせた。
手の財布がするりと滑り落ちる。
拾い上げたのは近藤正だった。彼は財布を手の中でくるりと回し、品定めするように眺める。
「シャネルの定番じゃん。でも……さすがに古すぎない? 水に浸かったみたいだし、革もボロボロだ。捨てろよ。俺が買ってやる」
そう言いながら、わざとらしく近くのゴミ箱へ向かおうとする。
「返して!」
相馬蛍は血相を変え、奪い返してバッグへ押し込んだ。胸がまだどくどくしている。顔を上げ、彼を睨みつける。言葉にならない怒りが瞳に満ちた。
近藤正は一瞬きょとんとし、片手をポケットに突っ込んで、余裕ぶった調子に戻る。
「冗談だって。なんでそんなに過敏なんだよ。大事な人にもらったのか? そこまで必死になるなんてさ」
語尾がゆるく落ち、どこか含みのある甘さが混じる。
蛍は本気で苛立っていた。
「あなたに関係ないでしょ。臆病者」
「……は?」
近藤正は蛍の腕を掴み、立ち去ろうとするのを止めた。
「俺が……臆病者?」
こんなことを言われたのは生まれて初めてだ。
蛍はその手を振りほどき、冷ややかに横目で刺す。
「臆病者なうえに、人の話も理解できないのね」
「……」
近藤正は、遠ざかっていく細い背中を呆然と見送った。
信じられない。
俺が――女に、街中で罵られた?
*
真田グループ一階。
相馬蛍が去った直後、真田辰則がロビーへ姿を現した。
受付の女性が息もつかずに駆け寄る。
「真田社長、エイダ様が……今、出て行かれました……!」
真田辰則は眉を上げる。
「経理に回して、給料精算」
「社長、私のせいじゃ……!」受付は泣き出しそうな声で縋る。「奥様が……」
真田辰則は照井平へ視線を投げた。表情は読めない。
「監視カメラを確認しろ。それと、あの女が口にした言葉を一言残らず記録して、俺の机に置け」
