第8章 婚内不倫のクソ親父
真田グループ社長室。
ソファに腰掛けた男は、視線を落としたまま手元の茶盞を眺めていた。長い脚を組み、口調は淡々としている。
「公の場で大騒ぎして……真田伊織に、これからお前をどう見せるつもりだ」
礼儀はある。だが、距離は一切縮まらない。まるで温度のない事務連絡みたいだった。
水原初歌は彼の前に立ち、感情が爆ぜたまま、泣き声混じりで言い返す。
「私が恥だって言いたいの? そうなの? 真田辰則!」
真田辰則はまぶたを持ち上げ、彼女を一瞥しただけだった。すぐに照井平が前へ出る。
「水原嬢、真田社長は先ほどまで会議中でして。お時間が取れなかっただけです、誤解なさらず」
「水原嬢って何よ。私は真田の奥様よ! 真田社長の奥様! 言葉を慎んで」
五年。水原初歌は真田家に受け入れられないまま、籍も入れていない。真田家の敷居すら跨げない。
息子を盾に、堂々と真田家へ入るつもりだった。けれど真田のお婆さんは、最初から彼女を眼中に置かなかった。
当然、その立場も認めるはずがない。
照井平は困ったように口を開きかけた。
「そ……お……」
その瞬間、真田辰則が茶盞を置き、会話を奪い取る。
「彼の呼び方は間違っていない。水原嬢。俺とお前は、法的に夫婦じゃない」
真田辰則の言葉で、水原初歌の頭が半分だけ冷えた。焦って一歩詰め、ぴたりと磨かれた革靴のそばに膝を落とす。すとん、と半身を沈め、アイロンの利いた冷たいスラックスの裾を掴んだ。
「辰則……ごめんなさい。私が悪かった。あんなに取り乱すべきじゃなかった。さっきの女がHJグループから来た人だなんて知らなかった。真田グループの取引先だなんて知らなかった、私……」
「もういい」
真田辰則が氷みたいに遮った。
水原初歌は目を真っ赤にし、縋る声を落とす。
「あなた、どれだけうちに来てないの……伊織はパパに会いたがってる。私だって会いたい。まだ小さいのよ、親がそばにいないと……」
照井平は脇に立ったまま、出ていくべきか迷った。
社長は、あの母子に十分すぎるほど甘い。そう思っている。
五年前の一件は、世間も周囲も誤魔化せた。だが真田辰則だけは誤魔化せなかった。
それでも社長は揉み消し、この数年、生活費も衣食も一度も欠かさなかった。四半期ごとに出る新作の贅沢品まで、きっちり手配して届けさせている。
これ以上、何が欲しいというのか。
不満があるにしても、あんな醜態を晒す理由にはならない。
……
しばらくして、真田辰則がようやく口を開いた。
「真田伊織は真田の子だ。今夜は連れて帰れ。母さんとお婆さんと、食事をさせろ」
言い終えると、思考が飛んでいた照井平に視線を向ける。
「水原嬢をモールへ連れていけ。気に入ったものは好きに買わせろ。終わったら真田邸まで送れ」
水原初歌の眉尻が上がる。それでも食い下がり、恐る恐る彼のズボンの裾を掴んだ。
「じゃあ……今夜、あなたも私のところに来る?」
「そのうち」
真田辰則は立ち上がり、デスクへ戻って腰を下ろす。命令だけが落ちた。
「行け」
照井平は肩をびくりと震わせ、慌てて水原初歌のそばへ回り、腕を貸す。
「み……奥様、参りましょう」
水原初歌は不満げに唇を尖らせながらも、部屋を出ていった。
真田辰則は椅子の背にもたれ、こめかみを押さえたくなるような頭痛に眉を寄せる。仰け反り、目を細める。
フランスでの――あの夜。
眉間の皺が深くなる。視線が沈む。
血液検査の結果は、真田伊織が自分の実子だと示していた。
彼は、その報告書が偽物かどうかを追及しなかった。
視線の先、机の上に置かれたばかりのファイルがある。照井平に命じ、あの女が階下で口にした言葉を記録させたものだ。
ページを開き、相馬蛍の言葉を一行ずつ追う。ひとつも取りこぼさない。
同時に監視カメラの映像も再生した。
……
相馬梓哉と江口霊は幼稚園へ来ていた。
相馬梓哉は事前に真田伊織のクラスを調べている。だから、わざとらしく言った。
「江口おばさん、ぼく、二組がいい。二って数字、好きなんだ」
江口霊は一瞬固まった。二組は、ちょうど真田伊織のクラスだ。偶然とは思いにくい。
だが、ぱちぱちと瞬く無垢な瞳を見て、首を振る。四歳そこそこの子どもだ。そんな深い腹があるはずがない。
「どうして二が好きなの?」
相馬梓哉は家から持ってきたキューブを指先で弄び、興味なさげに答える。
「入ってきて、最初に見えたのが二組だった。それで、気に入った」
江口霊は困った顔をした。
「二組はもう定員いっぱい。入れないわ」
その言葉に、相馬梓哉の手が止まる。笑いも消えた。まっすぐ江口霊を見上げる。
「きれいなおばさん。ぼくが二組に行ったら、何かやらかすって思ってる?」
江口霊はまた言葉に詰まった。
互いに腹の内を探り合う。だが江口霊は、すぐに自分を戒めた。四歳の子ども相手に、何を考えすぎているのか。
ここは校長室でもなければ、役所の会議室でもない。
相馬梓哉は畳みかける。
「それとも、二組に行ったら誰かに会うって思ってる? ぼくがいじめられるのが心配? それとも、ぼくがいじめると思ってる? 江口おばさんは、いったいどっちの味方?」
「私はもちろん、蛍の味方よ!」
江口霊は短気だ。言葉を飲み込めず、挑発に乗ってしまった。
気づいたときには遅い。完全に、この小さな男の子の罠に落ちていた。
相馬梓哉は澄んだ瞳で、まっすぐに言う。声は驚くほど誠実だった。
「きれいなおばさん、知ってる? ママ、この何年もずっと幸せじゃなかった」
「外から見たら、うまくいってるように見えるよ。街を歩けば声をかけられるし、仕事もうまくいってるし、上の人にも評価されてる。お金に困ってるわけでもない」
「でもね、そういうきらきらの裏側は、絶望ばっかりだった。ママはいつも、ぼくにもみんなにも隠して、一人でこっそり泣いてた」
「ママは強い。でも、それはみんなが見てるところだけ。夜、ぼくが目を覚ましたとき、いろんな薬を飲んで、ひとりで泣いてるのを見たことが何回もある。いつもそう。何でも胸の中にしまい込む」
江口霊の目元が赤くなる。声も少し掠れた。
「それって……」
相馬梓哉は揺らいだのを見逃さず、続ける。
「ぼく、ママがそうなってるのを見るたび、どうしたらいいか分からない。何もできないのが、すごく嫌なんだ。でも、どうにもできなかった」
「それが今、やっと華国に来られた。クソ親父に近づけるし、真田伊織にも会える。別に何かしてやろうってわけじゃない。ただ、見てみたいだけ。どんなやつらが、ママをあんなに苦しめたのか」
江口霊は喉がきゅっと締まり、必死に感情を整えた。そして、はっとする。
「……あなた、真田伊織のことも知ってるの?」
