第1章
M市随一の高級ホテル。その絢爛たる大広間で、宮原家の令嬢と村木家の後継ぎが、盛大な婚約式を執り行っていた。
M市の名士という名士が顔を揃え、ロビーは人で埋め尽くされる。笑い声、グラスの触れ合う音、祝福の言葉――華やぎは天井まで届きそうだった。
「――パっ」
そのとき。
ホテルの外で、唐突に鈍い音がした。
屋上から、ひとりの女が飛び降りたのだ。
裸同然で、肌には色の違う痣がいくつも散っている。
地面に叩きつけられた身体が、ぐしゃりと沈む。
通りがかった者たちはまず息を呑み、次いで彼女の身体の痣を見て、勝手な艶めいた想像を膨らませた。
視線は、驚愕から――軽蔑へ。侮蔑へ。嫌悪へ。
「こ……これ、宮原家のお嬢様じゃないか?」
その一言で、人だかりは一気に沸騰した。
「数年前に宮原家が引き取った娘だろ。外で甘やかされて腐ったって話だ。戻ってきてからは宮原さんの娘って立場を盾に好き放題、って」
「妹の婚約者まで誘惑したって噂もあるぞ!」
「上で婚約してるの、あの妹だろ? めでたい席を台無しにして……宮原家も顔が潰れるな」
ざわめきは渦になり、笑い混じりの声が飛び交う。
――けれど。
宮原ミナミには、もう何も聞こえなかった。
意識がゆっくりと薄れていく。
思い浮かぶのは、滑稽な父。
そして、それ以上に滑稽だった自分。
宮原家に連れ戻されたとき、財産も地位も、どうでもよかった。
ただ、孤児ではなく「父と母のいる子」になりたかっただけなのに。
媚びて、合わせて、必死に笑って――待っていたのが、この結末。
ひとりの娘には盛大な婚約式を用意しながら、もうひとりの娘を、屑どもの手に自ら差し出す父親。
そして、ここまで自分を追い込んだ宮原美奈子――。
宮原家に戻ったばかりの頃、家中の誰もが冷たかった。
そんな中で、宮原美奈子だけが、ことあるごとに庇ってくれた。
継母が連れてきた娘だと分かっていても、宮原ミナミは彼女を本当の姉妹だと思った。
どんな大事でも、宮原美奈子が「代わりに被って」と言えば、黙って引き受けた。
――けれど、結局。
憎い。
宮原家の人間が。騙しが。毒のような悪意が。
そして何より、愚かだった自分が。
母が残してくれた財産を両手で差し出し、才能を隠し、宮原美奈子を引き立てるために愚かな真似ばかりした。
道化のように、宮原家の掌で踊らされていた。
宮原ミナミの怨みを宿した瞳は、なかなか閉じない。
――もし来世があるなら。必ず、報いを。
そのときだった。
ホテルの正面玄関に、背の高い男が降り立つ。
周囲が自然と道を開け、まるで星々が月を迎えるように、彼を中心に空気が変わった。
仕立てのいいオーダースーツ。
一歩ごとに、圧が増す。
「……津坂家の、あの当主じゃないか?」
「気分屋で、癖が強くて……でも実力は桁違い。M市中が畏れてるって噂の」
「まさか宮原家の婚約式に、あの人を呼べるとは……」
人々は息を呑み、津坂崇介の来訪理由を探り始める。
しかし当の津坂崇介は、途中で足を止めた。
血溜まりの中に横たわる女――宮原ミナミを、彼は見ていた。
聡いようで、情に弄ばれた女。
その姿は、古い時代の油彩画のように凄絶で、美しかった。
「崇介様」
助理が訝しげに声をかける。
「……羽織らせろ」
津坂崇介は自分のジャケットを脱ぎ、助理へ差し出した。
助理は驚きつつも、すぐに駆け寄ってそれを掛ける。
「心が澄んだ人間が、汚名に潰される必要はない。ただの……哀れな人だ」
津坂崇介はしばらく見下ろし、周囲の誰ひとり助けようとしないのを見て、眉を寄せた。
「葬儀社に連絡しろ」
――宮原ミナミの意識は、空のどこかに漂っていた。
怨気に満ちた魂が、ジャケットを掛けられる瞬間、ふっと止まる。
こんな最期に、弔ってくれるのが――彼だなんて。
そう思った次の瞬間、空が唸る。
突風が巻き起こり、宮原ミナミは完全に闇へ沈んだ。
――
M市の富裕層が住む山の上。
静まり返った山道を、黒いセダンが猛スピードで駆けていた。
その前方を、黒い影が横切る。
「うわっ!」
運転手が反射的にブレーキを踏み込む。
キィィ――ッ……!
タイヤが地面を削り、火花が散った。
後部座席の少女が、どん、と背もたれに打ちつけられ、そのまま意識を失う。
「ミナミさん! 大丈夫ですか!」
運転手は慌てて振り返るが、返事がない。
青ざめて車を降り、後部座席へ回り込む。
宮原ミナミの頭はぐらぐらしていた。
揺れる光と影。夢か現か、判別がつかない。
必死に首を振り、ようやく目の前の景色が輪郭を持つ。
「……羽岡?」
「はい、私です。ミナミさん、怪我は? 病院へ――」
宮原ミナミは首を横に振った。
窓ガラス越しの陽光が、眩しく滲んで光の輪になる。
彼女は自分の腕を強く抓り、痛みで確かめる。
「羽岡……私たち、今どこへ?」
分かっている。けれど、確認せずにはいられない。
「ミナミさん。あなたは宮原家当主の実の娘です。お屋敷へお迎えに――忘れたんですか?」
宮原ミナミは笑った。
瞳の奥で、憎しみが静かにほどけていく。
忘れるはずがない。
十年前――初めて宮原家の門をくぐった日。
期待が崩れ、やがて死にまで泥を引きずることになる、始まりの日。
窓の外の道は、見覚えがありすぎた。
当時、車の手配がつかないだの、山はタクシーが捕まりにくだのと言われ、彼女は歩いて下りるしかなかった。
迷惑をかけたくなくて、必死に気を遣い、媚びて、笑った。
――今なら分かる。
あれはただの嫌がらせで、恥をかかせたかっただけ。
どれほど愚かだったのだろう。
自分のものを使われ、踏みにじられ、それでも「家族になりたい」と願っていたなんて。
前世の記憶が胸を刺し、身体の芯から冷えが這い上がる。
瞳が、赤く染まる。
運転手が思わず息を呑んだ。
……何か、憑いたのか?
「ミナミさん……?」
その声で宮原ミナミは我に返り、ゆっくり息を吐く。
焦らない。
今世は、時間がある。
「大丈夫。行って」
淡々と告げる。
――この人生では、二度と同じ轍は踏まない。
蒼山の山頂は広大で、木一本、景色一つが、外の人間には手の届かないものばかり。
M市の富が集まる場所だ。奥へ進むほど景色は洗練され、住む者の家格も上がっていく。
「蒼山はM市で一番眺めがいいんですよ。これからミナミさんはここで暮らすことになります」
羽岡が朗らかに説明する。
宮原ミナミは「うん」とだけ返した。
羽岡は内心首を傾げる。
来る途中、彼女は家のことを何度も尋ね、緊張と期待で落ち着かない様子だった。
運転手相手にも、恐る恐る愛想を振りまいていたのに。
今は、波一つ立たない。
まるで本物の名家の令嬢のようだ。
やがて車は宮原邸へ。
豪奢な邸宅の門。
石の龍が噴水で戯れ、水霧が陽にきらめく。
手入れの行き届いた庭では、貴婦人が優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいた。
宮原ミナミは口元をわずかに吊り上げる。
――福部優子。
