第2章
「奥さま、ミナミさんがいらっしゃいました」
使用人がこちらの気配に気づき、アフタヌーンティーに浸っていた女へ小声で告げた。
福部優子は顔を上げ、宮原ミナミを一瞥する。次の瞬間には、まるで汚れでも目に入ったかのように視線を引っ込めた。
「……奥さま」
使用人が気まずそうに笑う。
「裏庭へ連れていきなさい」
声は羽のように軽い。人ではなく、荷物でも扱うみたいに。
「裏庭は使用人部屋のほうで……お嬢さま、それは……」
使用人がためらう。
「美奈子がピアノのコンクールで賞を取ったの。練習室を作らなきゃ。沢介だって大きくなれば書斎が必要でしょう。どこに「余計な人間」の部屋があるっていうの」
「で、でも……」
使用人は口を開きかけ、言葉を飲み込む。
――前世も、まったく同じだった。
福部優子は適当な理由を並べ、彼女を裏庭へ押しやった。
裏庭の部屋は狭い。使用人が多く、騒がしい。
それでも当時の宮原ミナミは不満を言わなかった。田舎の湿った土壁の家、夜になると鼠が走る――それに比べれば、ここは天国だったから。
主屋の人間がどれほど広い部屋に住んでいるか、分かっていても。
それでも「十分だ」と、自分に言い聞かせていた。
けれど――。
宮原家の人間は、彼女を家族だと思っていない。
そんな連中に、家族を名乗る資格などあるはずがない。
「福部さん。私の記憶違いでなければ、この屋敷は母の名義の不動産よ」
宮原ミナミは静かに言った。
「母が行方不明なら、この家は私のもの。私の家に住みながら、私を裏庭に追いやるなんて――滑稽だと思わない?」
福部優子が一瞬、言葉を失う。どこでそんな話を嗅ぎつけたのか、とでも言いたげに。
「笑わせないで!」
ようやく茶器を置き、福部優子は顔を向けた。
「宮原家のものは全部、あなたの父親のものよ。私はその妻。あなたをどこに住まわせるかは私が決める。気に入らないなら、あんたのボロい田舎に帰ればいいじゃない」
言葉の端々に、脅しが滲む。
宮原ミナミが宮原家に戻れたことを、感謝して平伏すべきだと信じているのだ。
「お嬢さま、奥さまを怒らせないで……」
使用人が慌てて口を挟む。本当に追い返されたら、と怯えている。
宮原ミナミは淡く笑った。
「本当かどうか、父に聞けばいいでしょう」
そして、さらりと告げる。
「この家、私がその気になればいつでも取り戻せる。そうなったら出ていくのは――宮原家の奥さま、あなたのほうよ」
福部優子は言い返せなくなった。
宮原家がどう成り上がったか――彼女自身が一番よく知っている。
だが、この娘の態度は想定外だった。
後でお爺さんに、きっちり言いつけてやる。
「もういいわ。疲れた。部屋は自分で探す」
そう言い捨て、宮原ミナミは主屋へ向かって歩き出す。
使用人は道が分からないと困ると思い、後ろをついていった。
二階、最初の部屋。扉が開いている。
柔らかな絨毯が入口から部屋全体を覆い、家具も装飾品も一目で高級と分かる。
「こちらが、お嬢さまのお部屋です」
使用人が説明する。
宮原ミナミは一瞥し、淡々と訂正した。
「これからは次女様と呼んで」
凶いわけではない。ただ、ひんやり澄んだ視線。
それだけで使用人は背筋がひやりとして、慌てて頷いた。
「次女様は、まだ学校から戻っていなくて……」
案内しようとした使用人は、宮原ミナミが部屋へ入ろうとするのを見て慌てた。
「次女様は、他人が部屋に入るのを嫌がります」
本音は別だ。
宮原ミナミがこの部屋を気に入ったら面倒が起きる。
宮原ミナミはその意図を見抜き、薄く笑う。
「安心して。人の使い古しに興味はないから」
そう言って踵を返し、廊下の一番奥へ向かった。
突き当たりの部屋は広いが、西日が強い。縁起を気にする者は寝室にしない。
――宮原ミナミは、一度死んだ。
そんなものを気にする理由がない。
夕方。
宮原美奈子が帰宅し、宮原ミナミの部屋の扉を押し開けた。
艶やかな影が、軽い足取りで入ってくる。
ピンクのプリンセスドレスに、オーダーの靴。鞄まで限定品。
磨き上げられた「お姫さま」だった。
「お姉ちゃ……」
「人の部屋に入るなら、ノックくらいしたら?」
明るく甘い声が途中で折られる。
宮原ミナミは窓辺に腰掛けたまま、口元だけで笑った。見せびらかしたいのが透けて見える。
「……宮原、次女様」
一語ずつ区切った呼び方に、宮原美奈子の顔色がさっと白くなる。
窓際の女に目をやる。
陶器のように白い肌が夕陽に照らされ、長い脚が気怠げに組まれている。
古びた服でも、気品が隠れない。
――田舎者のくせに、こんなに綺麗?
宮原美奈子は眉をひそめた。
だが、部屋の中を見てすぐに満足げになる。
家具は最低限。がらんとしている。
「急いでお姉さまと仲良くなりたくて、つい……次はノックします」
殊勝に言い、少し間を置いて続けた。
「お姉さま、急に戻ってきたから色々揃ってないでしょう? 私の部屋、見ます? 足りないものがあれば買わせるから」
――誰が宮原家で愛されているか、教えてあげる。
そんな含み。
宮原ミナミは突っ込まず、淡々と言う。
「シンプルでいい。物が増えると心も濁る。自分の立場が分からなくなるから」
刺がある。
宮原美奈子は、それが自分に向けられたのか、相手自身への自嘲なのか測れない。
だが、次の段取りを思い出し、笑顔を作る。
「お父さんが帰ってるの。お姉さま、支度して下りてきて」
「うん」
宮原ミナミは冷たく返し、手をひらりと振って追い払う。
胸の奥で火が燻る。
――私が一番可愛がられてるのに。
本当なら、この田舎者が私に媚びるはずなのに。
宮原美奈子はわざと扉を強く閉め、委屈そうな顔で階段を駆け下りた。
宮原ミナミが下りる頃には、食卓には三人が揃っていた。
水晶のシャンデリアと大理石の床が光を跳ね返し、笑顔が温かな家族の絵を作っている。
宮原江太郎、福部優子、宮原美奈子。
宮原沢介は祖母の家にいるらしい。
宮原ミナミはスリッパのまま、ゆっくり階段を下りる。
その足音が、階下の笑い声を断ち切った。
一瞬、空気が固まる。
宮原ミナミは、彼らの笑みが消えていくのを眺め、眉を上げた。
口元に、どこか邪悪な弧。
宮原美奈子が立ち上がり、ミナミへ歩み寄る。
「お姉さま、こっち。みんな待ってたの」
手を取ろうとして、宮原ミナミのぼろぼろの服を見て、さりげなく引っ込める。
宮原ミナミは、その小さな仕草を見なかったふりをした。
