第3章
宮原ミナミは、彼女の小さな仕草など見なかったことにした。
「美奈子。汚らわしい人間からは離れなさい」
福部優子は箸を優雅に運びながら、淡々とそう言った。
露骨な侮辱に、周囲の使用人たちは気まずそうに視線を落とす。
だが宮原ミナミは平然としていた。顔色ひとつ変えない。
――前世で、同じ言葉を千回、万回と浴びてきた。
今さら福部優子が何を言おうと、胸の奥は一ミリも揺れない。
宮原美奈子は困ったように宮原ミナミを見つめ、言いかけては飲み込む。けれど瞳の奥には、かすかな得意が滑っていた。
宮原ミナミは勝手に席につき、向かいの福部優子を見据える。
「空気1立方メートルには数万種類の菌がいる。呼吸のたびに体内に入る菌は2千万とも言われてる」
授業みたいな口調で続けた。
「奥さまが座ってる椅子も、持ってる箸も、食べてる料理も、絶対に清潔とは言えない。そこまで環境に厳しいなら――」
ふっと笑う。
「感染症の隔離病棟にでも入ったら?」
「宮原ミナミ! 私を呪う気!?」
福部優子は一瞬きょとんとし、次の瞬間、怒りで声を荒らげた。
娘に恥をかかせられた腹いせに、ミナミを貶めるつもりだったのだろう。まさか言い返されるとは思っていなかった。
「事実を言っただけ。事実が嫌なら、耳を塞げば?」
宮原ミナミは動じない。
以前なら、宮原家の人間に睨まれただけで心臓が縮み上がっていた。
でも今は、彼らから何も求めていない。だから怖くもない。
怒ろうが笑おうが、私には関係ない。
「ミナミ。彼女はお前の母親だ。言い方に気をつけろ」
宮原江太郎は、目の前の娘を見てわずかに驚いたようだった。知らない顔をしている――そんな目。
宮原ミナミが返すより早く、福部優子が噛みつく。
「やめて。私は「素性の知れない娘」なんて持ってないわ!」
「素性の知れない」
その言葉に、宮原江太郎の眉がぴくりと動く。
宮原ミナミは椅子に深く腰を落としたまま、涼しい顔で言った。
「私が父の娘なら、「素性の知れない娘」ってことは――私のことを私生児だって言ってるの?」
唇の端を上げる。
「じゃあ、その私生児の父親は何?」
そして顎を上げた。
「それに……私の母親?」
宮原ミナミは福部優子を指し、軽蔑を隠さず言い放つ。
「あなたが? ――笑わせないで」
「無礼者! 宮原家で好き勝手はさせない!」
福部優子は堪えきれず立ち上がり、平手打ちを振り上げた。
宮原ミナミは片手でその手首を止める。
「その一発、よく考えて。正妻の娘を虐げたって噂、二度と消えないよ」
「もういい! 帰ってきた初日から家を掻き回すな!」
宮原江太郎が苛立ちを露わにして怒鳴った。
そして、値踏みするように宮原ミナミを見た。
福部優子と美奈子が「扱いにくい」と言っていたのを、最初は大げさだと思っていた。
田舎育ちの娘が、どれほどのものだと。
――だが、実物は想像以上だった。
確かに厄介だ。簡単に折れない。
宮原ミナミは宮原江太郎の視線に不快を覚えたが、気にしない。ゆったりと口を開く。
「ニュースで見た。津坂グループがM市に貴族学校を作るって。企業の後継者を育てる学校」
「息子を入れられれば、津坂家と少しでも縁ができる。今、M市中が必死で入りたがってる」
「私が戻って初日、宮原奥さまは私を使用人部屋に押し込もうとした。食事も「汚い」って」
「小さく見れば家庭の揉め事。でも大きく見れば品性の問題」
宮原ミナミは視線を宮原江太郎へ向ける。
「宮原家の評判に傷がつけば、損をするのは会社。……お父さん、私のためじゃなくても、宮原沢介のために考えたら?」
「器の小さい母親で、面接を通ると思う?」
宮原江太郎にとって一番は会社、次が息子。
そこを突けばいい。宮原ミナミは外さない。
案の定、宮原江太郎の表情が変わった。
「宮原家がここまで伸びたのは運じゃない。宮原奥さまなら言動に頭を使え。小さな意地で家の顔を汚すな」
「江太郎!」
福部優子が食い下がりかける。
「宮原ミナミが戻った途端、あなたはあの子の味方をして……まさか、まだ――」
宮原江太郎の鋭い視線が突き刺さり、福部優子の言葉は喉で潰れた。
――禁句。
あの人のことは、口にしてはいけない。
「これ以上口を滑らせるなら、福部家の案件を止める。福部家ばかり気にして、本分を忘れるな」
「……はい」
福部優子は黙るしかなかった。
「お父さん、お母さん。お姉さまは戻ったばかりで、きっと心にわだかまりが……。まずは食事にしましょう」
宮原美奈子が柔らかく場を収める。福部優子に逃げ道を用意しつつ、宮原ミナミには『怨みを抱えた厄介者』という印象を塗る。
宮原江太郎は満足げに頷き、黙々と食べる宮原ミナミを見て眉を寄せた。
「美奈子はM市でも名の知れた令嬢だ。礼儀も弁えている。お前も見習え」
「宮原家の娘として、体面を守れ。田舎のガサツな真似を持ち込むな」
慈父のような口ぶり。
その言葉が、宮原ミナミの胸を細かく刺した。
前世の彼女は、これを「愛」だと思った。
父の望む「聞き分けのいい娘」になろうと、どれほど捧げたか。
その果てに、父の手で屑どもへ売られた。
宮原ミナミは箸を置き、静かに言う。
「私は十数年、そうやって育った。歓迎されないなら、出ていく」
宮原江太郎の瞼が跳ねる。
「馬鹿なことを言うな。お前は私の娘だ。やっと見つけたんだ、歓迎しないわけがない」
そして溜息をついた。
「……好きにしろ」
本気で探していたなら、十数年もかかるはずがない。
宮原ミナミは心の中で冷笑する。
「そうよミナミ。お父さんはあなたを想ってたの。ほら、私の名前だって「ミナミ」に合わせて変えたでしょう?」
宮原美奈子は目をきらりとさせ、宮原江太郎の腕に抱きついて甘えた。
宮原江太郎は愛おしげに美奈子の頭を撫でる。
父慈子孝の絵。
宮原ミナミは目の奥が熱くなった。
自分こそ実の娘なのに。美奈子は福部優子の連れ子にすぎないのに。
なぜ、こんなにも違う。
幼い頃一緒にいなかったから?
なら、なぜ自分を失った? 母はどこへ?
「そういえばお父さん」
宮原美奈子が、何気ないふりで傷を抉る。
「お姉さまの学校は、もう手配できたの?」
