第5章
昼過ぎ、宮原ミナミの試験結果が出た。
宮原美奈子は昼食もそこそこに教務室へ向かい、坂村和哉も様子を見て、自然とあとをついていく。
「小崎主任、私、姉を探してて……どこにいますか?」
宮原美奈子は毎年のように優等生で、教師陣とも顔が利く。
小崎主任は四十手前。普段は厳格そのものなのに、今日はひまわりみたいな笑顔を浮かべていた。
「美奈子さんか。お姉さんなら、もう帰ったよ」
「帰った? ……途中で諦めたんですか?」
それが宮原美奈子の第一反応だった。
午前中で全科目を終える試験だ。時間はきつい。こんなに早く出ていくなんて、投げ出した以外に考えられない。
胸の奥で小さくガッツポーズを決めつつ、表面だけは殊勝に頭を下げる。
「主任、すみません。姉は田舎から来たばかりで、確かに素養が……本当は来させたくなかったんです。でも本人が騒いで、どうにもならなくて」
宮原ミナミをそれとなく貶しながら、美奈子は内心ほくそ笑む。
これでM市中の笑いものだ。宮原ミナミが自分と張り合う余地なんてなくなる。
「違う違う」
小崎主任は慌てて手を振った。
「お姉さん、早く提出したんだよ。しかも全科目満点! 天才だ! うちの市立高校の格がまた上がるぞ、ははは!」
隠しきれない興奮が声に乗り、笑い声が教務室に響く。
宮原美奈子の顔色が、さっと崩れた。
唇が震え、信じられないという目で固まる。
「……どうして……」
「君のお父さんが送ってきた成績を見たときは、正直、うちが取るはずないと思ったんだ。いやぁ、隠してたんだね。逃さなくてよかった、ははは!」
その一言一言が、美奈子の胸を抉る。
田舎者が天才? ありえない。
「宮原さん?」
小崎主任に何度か呼ばれて、ようやく美奈子は我に返った。
「さっきお姉さん、急いで帰ったからね。私の判断が浅かったって、謝っておいて。早く手続きに来るように伝えてくれ」
肩をぽん、と叩かれた瞬間、美奈子は胃の奥がせり上がるのを感じた。
返事もろくにせず、踵を返して飛び出す。
坂村和哉が慌てて追いかける。
「美奈子、気にするなって。君、押さえた問題を渡しただろ。あいつが点取れたのも、君が傾向を読んだおかげだよ。出題の先生たちとも仲いいし、当てるのなんて難しくない」
その言葉に、美奈子の呼吸が少し落ち着く。
けれど、次の瞬間には、わざと弱々しい声を作った。
「でも……お父さんは知らないの。宮原ミナミは実の娘で、私は継子でしょ。あの子が優秀なら……私、家に居場所がなくなるかもしれない」
惨めそうに眉を下げる美奈子に、坂村和哉は胸を締めつけられる。
「そんなわけない。君は十何年もM市のお嬢様として認められてきたんだ。たった一回の試験で、あいつが君に勝てるわけないだろ」
そして、ふっと思いついたように言った。
「そうだ。数日後、うちの会社の周年パーティーがある。君の父さんに、あいつも連れてこさせよう。そこで思い知らせてやればいい。あいつと君の差を」
成績なんて飾りだ。名門の世界じゃ、人脈がすべて。
坂村和哉はそう信じて疑わない目をしていた。
宮原美奈子はようやく表情を和らげ、感謝の笑みを向ける。
「坂村和哉、ありがとう」
――
一方、宮原ミナミは学校を出ても家には戻らず、タクシーで遠川グループへ向かった。
帽子とマスクで顔を隠す。
受付の女性は慣れた様子で言う。
「身分証の提示をお願いします」
「支店長……じゃない、責任者に会いたい」
女性は宮原ミナミを上から下まで見て、未成年だと判断したらしい。
貼りつけたような職業笑顔を浮かべる。
「責任者は多忙ですので。1億以内の案件でしたら、私が対応できますよ」
わざと「億」を強調する。
宮原ミナミは母が遺した額を知らない。
だが前世の宮原江太郎の執着を思えば、1億で済むはずがない。
「あなたじゃ無理。責任者を呼んで」
受付の笑みが引きつる。
「お嬢ちゃん、冷やかし?」
人手不足でなければ、こんな相手を最初から取り合わないのだろう。
苛立ちを隠さず言い放つ。
「責任者は会いません。用がないならお帰りください」
背を向けた受付の腕を、宮原ミナミが掴んだ。
「どうしたら会えるの?」
受付はさらに不機嫌になり、入口近くの小部屋を指さした。鼻で笑うように。
「まずはあちらで資産確認。3億あれば、順番待ちなしで責任者が会います」
3億。
今はない。けれど、どうしても先に動かさなければならない。
宮原ミナミがその場から動かないのを見て、受付は警備を呼ぶか迷い――その瞬間。
責任者が、腰を低くして誰かを迎え入れるのが見えた。
ただ者ではない気配の男。背筋が自然と伸びるような、圧。
宮原ミナミは受付の表情の変化で察し、まっすぐ歩み寄った。
「遠川グループの責任者ですか?」
責任者は貴客の対応中に呼び止められ、内心むっとしつつも、表情だけは崩さない。
「はい。ご用件は担当者へ――」
先ほどの受付を指す。
受付は慌てて駆け寄り、甘ったるい声で取り繕った。
「私で対応できると申し上げたんです。でもこの方が責任者に会いたいって、資産確認も拒否で……」
そして隣の男へ、ちらちらと視線を投げる。
けれど、男は一切反応しない。
宮原ミナミは、その男を一目で認めた。
津坂崇介の秘書――武井景二郎。
前世、あの最期に衣服を掛けてくれた男。
胸の奥で何かが弾け、宮原ミナミは即座に口を開いた。
「武井さんが、私の保証人になってくれます」
空気が止まった。
責任者も受付も、言葉を失う。
武井景二郎は「知らない」と言いかけて、眉を寄せた。
宮原ミナミは一歩寄り、彼の耳元へ身を寄せて、短く数言囁く。
武井景二郎の目が揺れる。
疑いと、確信になりきらない何かが交錯する顔。
責任者が慎重に尋ねた。
「武井さん……お知り合いで?」
宮原ミナミは息を詰める。
信じるか、信じないか。
武井景二郎はしばらく考え、やがて答えた。
「……知っている」
