第6章
武井景二郎はしばらく逡巡した末、ようやく答えた。
「……知っている」
宮原ミナミは、ほっと息をつく。
支店長がすかさず言った。
「このお嬢さまをVIPルームへ。私はすぐ伺います」
受付係は驚きで口を開けたまま固まり、胸の内で必死に安堵する。さっき変な口を利かなかった自分を褒めたい。
この仕事は給料こそいい。だが一度でも客を怒らせたら、次の道はない。
彼女は腰を折り、宮原ミナミへ案内した。
「こちらへどうぞ」
宮原ミナミは振り返り、武井景二郎に向かって口の形だけで告げる。
――信じて。
武井景二郎は苦笑した。頼むから、嘘であってくれるなよ。
VIPルームは外界と切り離された別世界だった。防音も、視線の遮り方も、ロビーとはまるで違う。
支店長が入ってきたとき、宮原ミナミはすでにマスクを外していた。あまりに幼い顔立ちに、支店長の目が一瞬揺れる。
だが武井景二郎と関わりがある相手だ。軽んじるわけにはいかない。慌てて歩み寄った。
「お嬢さま、本日はどのようなご用件で?」
宮原ミナミが事情を説明すると、支店長は少し考え込む。
「委託者の情報が不明となりますと……まずはお嬢さまの個人情報を照合する必要がございます」
「当社の受益者データベースと突き合わせ、該当があるか確認いたします」
「お願いします。できるだけ早く」
支店長はまず指紋認証を行った。結果を見た瞬間、顔色が変わる。
「……失礼いたします。念のため、虹彩認証も」
宮原ミナミは大人しく従う。ほどなく結果が出る。――一致。
支店長は息を呑んだ。
「……申し訳ございません。お母さまは確かに当社へ資産をお預けです。ただ、私の権限を超えております。社長をお呼びいたします」
先ほどまでの丁重さは、武井景二郎への配慮が大半だった。だが今は違う。目の前の少女そのものが、会社にとって最上級の客だった。
宮原ミナミも内心驚いていた。想像以上に大きい。
前世――宮原グループが一気にM市の頂点へ駆け上がり、T市の筋とまで繋がったのは、宮原江太郎がこの資産を手に入れてからだ。
宮原ミナミは頷き、取り乱しもしない。その落ち着きに、支店長の態度はいっそう低くなる。
「念のため、DNA照合も行います。お母さまとの対比となりますので、お時間を頂戴いたしますが……」
「分かりました」
幾重もの審査と待機の末――宮原ミナミは、母が遠川に託していた資産の全容を受け取った。
資料に並ぶ数字を見て、前世の記憶があっても、息が止まりそうになる。
現金10億。
薬方の書。
複数の不動産。
宮原ミナミの手元には、医理の本がある。孤児院に引き取られたときから、なぜかずっと傍にあったものだ。
母が残したのだろうと、薄々思っていた。
宮原家へ戻ったあと、その本は宮原江太郎に取り上げられた。
宮原美奈子はそれを利用して「神」などと持ち上げられ、正当な継承者であるはずの自分は「学ぶな」と命じられた。
こっそり学んでも、父の機嫌を損ねるのが怖くて、表には出せなかった。
――奪われたのは、これだ。
宮原グループが突然製薬へ舵を切り、巨大化した理由。間違いなく、この薬方。
ここ数年、中成薬は「効いて副作用が少ない」ともてはやされ、金の鉱脈になっている。
処方ひとつで数億。ましてこの書には百を超える処方がある。
遠川がこの資産を「100億」と評価したとしても、誇張ではない。
「宮原さま。こちら、すべて引き出されますか?」
宮原江太郎が諦めるはずがない。あの男は、必ず奪いに来る。
宮原ミナミは首を横に振った。
「3億は残す。残りは全部、私の管理に移して」
「承知しました。すぐ手続きいたします」
――
宮原江太郎に勘づかれたくなくて、送迎は断った。
帰宅したころには、宮原家の人間はすでに夕食を終え、リビングでテレビを見ていた。
「どこへ行ってた。遅い」
宮原江太郎の声。
宮原ミナミは紙袋を軽く揺らす。
「服を買ってた。学校に行くのに、昔の服のままだと宮原家が笑われるでしょ」
「金はどこから?」
福部優子が訝しげに眉を寄せる。小遣いなど渡していないはずだ。
宮原ミナミは淡々と答えた。
「宮原家のツケ。市立高校に受かったら、100万くれるって言ったよね。――ご褒美」
「賭け」ではなく「ご褒美」。父の自尊心を、わざわざ立ててやる。
宮原江太郎は言葉に詰まり、結局否定できなかった。
「女の子は早く帰れ。夜にふらふらするな。美奈子を見習え」
何を言うにも美奈子を添える。比べてやることが、持ち上げてやっているつもりなのだろう。
「分かった」
投げやりな返事。
宮原ミナミは二階へ上がる。誰ひとり「食べたのか」とは聞かない。
部屋に戻ると、丁寧に鍵をかけた。
それから、薬方の書を机に置く。
すぐには開かない。
表紙を、長い時間撫でた。
母が自分のために用意してくれたもの。その重さが、胸を締めつける。
前世、宮原江太郎は苛責を「指導」に、厳しさを「育成」に言い換えた。
搾取は「家のため」、利用は「大局のため」――そうやって全部、正当化した。
宮原ミナミを接待に連れ回し、商売の闇を見せた。
けれど宮原美奈子には、指一本触れさせない。
――どれほど愚かだったのか。
そんな嘘を信じた自分が。
宮原美奈子が父の娘だとしても、自分だって同じ血だ。なぜ、ここまで差をつける。
理解できない。だがもう、父の愛など期待しない。
ただ――宮原家を、粉々にする。
前世、自分の血肉で育てた宮原グループを、二度と這い上がれないように。
そして、母のこと。
前世、母に感情はなかった。
宮原江太郎は「母が捨てた」と言い、宮原ミナミはそれを信じた。十数年の地獄を、母のせいにした。
母の遺したものも軽んじ、母性を福部優子に求めた。
必死に媚びて、宮原美奈子と同じように愛されようとした。
冷たさと甘さの綱引きの中で、完全に道具になった。
罪悪感が潮のように押し寄せる。目が熱くなり、拳を握りしめる。自分を殴りたい。
もし宮原美奈子が私生児なら、父は母の妊娠中に浮気した屑だ。
福部優子は、堂々と家に上がり込んだ相手。
そんな二人に、私は哀れみを乞うた。
身を滅ぼし、身の名を汚し、路上に晒されたのも当然だ。
母の失踪は、きっとこの二人と無関係ではない。
必ず調べる。
「コンコンコン――」
「お姉ちゃん、いる?」
宮原美奈子の甘い声。妙にへりくだっていて、まるで宮原ミナミの機嫌を恐れているみたいだ。
宮原ミナミは書を丁寧に隠し、ドアノブを回した。
感情のない声で。
「何?」
