第2章

 電話を切ると、私は青葉区にある手狭なワンルームマンションへと戻った。

 翔太が冴島グループの実権を握って久しく、結衣の療養のために星見市にペントハウスを購入したばかりだというのに、彼は私にここへ留まるよう言い張った。

「ここが俺たちの夢の始まりだからな」と、彼はわざとらしいほど懐かしさを滲ませた声でよく言っていた。「初心を忘れてはいけないんだ」

 今、ロマンチックなフィルターを外してみれば、その正体がはっきりとわかる。それは、都合のいい「保険」を閉じ込めておくための鳥籠でしかなかった。

 ドアを押し開けると、たちまちカビの臭いが鼻をついた。

 黄ばんだソファに歩み寄り、クッションの一つを持ち上げる。その下には、埃をかぶったトロフィーが転がっていた――「星見市新進気鋭デザイナー金賞」。

 六年前、私は恐ろしいほど巨大な一族の遺産の影から逃れるために、ここへ引っ越してきた。エンジェル投資の最初のラウンドを勝ち取ったばかりの翔太が、私の手を握ったのはまさにこのソファの上だった。私をこの袋小路へと追い込んだのは、その時に彼が口にした約束だ。「絵梨奈、投資家っていうのは、恋愛にうつつを抜かしている社長を不安視するんだ。だから、今のところは俺たちの関係を秘密にしておいてくれないか? 基盤が固まったら、絶対に公表するって約束する。君を冴島の妻にするから」

 その「今のところ」は六年間も続いた。私は神崎という名の輝きと引き換えに、透明人間の女という身分を手に入れたのだ。

 鋭く激しい胃の痙攣が、私の回想を断ち切った。

 腹部を押さえながら、狭いミニキッチンへとよろめき歩く。たった昨日、あのウェディングドレスを着るために、私は一日中何も口にしていなかった。冷蔵庫を開ける。四十八時間前に買った二つのリンゴを除いて、中は空っぽだった。

 一つに手を伸ばそうとした時、カウンターの上でスマートフォンが震えた。結衣がインスタグラムのストーリーを更新したのだ。

 背景は、高級私立病院のVIPルーム。画面の中央にはクリスタルの皿が置かれ、そこにはウサギの形に精巧にカットされたリンゴが並んでいた。大人の女性にではなく、小さな子供にするようなことだ。

 キャプションにはこう書かれていた。「翔太が私の血糖値を心配して、どうしても自分で食べさせるって言い張るの。看護師さんたちじゃ気が利かないからって」

 宙に浮いた私の手は、凍りついたように止まった。

 そういうことか。彼は、私を「思い出深い」古いアパートで飢えさせながら、私の一年分の家賃よりも高い一泊の部屋で、別の女のためにリンゴの皮を剥いているのだ。「のし上がるまでは関係を公にしない」というルールは、決して戦略などではなく、私にだけ向けられた箝口令だったのだ。

 私は冷蔵庫のドアを乱暴に閉めた。胃の痙攣は治まらなかったが、その痛みは私の頭をクリアにしてくれた。目を覚まさせてくれたのだ。

 振り返ってクローゼットへ向かい、丈夫な黒いゴミ袋を引っ張り出した。

「ときめく」かどうかの儀式も、感傷的なためらいもなかった。あるのは、腐敗した肉を処分するような冷酷な効率性だけだ。

 彼がくれたロゴだらけのトートバッグ? 彼は「クワイエット・ラグジュアリー」だと言っていた。現実には、それは安売りされていた偽物だった。袋へ放り込む。彼の「苦労している起業家」というペルソナに合わせるために買った、安っぽくて擦り切れた服? 袋へ。契約書の郵送料を節約するためだけに、靴擦れを作りながら八キロも歩いた時に履いていたパンプス? 袋へ。

 ゴミ袋はあっという間にいっぱいになった。

 最後にもう一度、部屋を見回した。自ら課した妄想を剥ぎ取ってみれば、このアパートはその本来の姿を現した――カビ臭くて狭い、安アパート。ここは決して家などではなく、私自身の希望的観測の記念碑に過ぎなかった。

 スケッチブックとスーツケースを手に取る。外へ出てドアに鍵をかけ、六年間の愚行をその奥に封じ込めた。

 翌朝、私は冴島財閥本社のロビーに立っていた。

 通勤ラッシュの真っ最中だった。吹き抜けにある巨大なLEDスクリーンには、真っ赤な速報のテロップが流れている。「冴島社長の深い愛情! 義理の妹が危機を脱する」。画面には、疲労と深い愛情を感じさせる無精髭を生やした翔太が、週刊誌の記者たちから結衣をかばう映像が流れていた。

 私がスーツケースを引きずっているのを見た受付嬢は、すぐに警備員に耳打ちした。声を潜める気すらなく、あからさまに聞こえる声で。「見てよあれ。指輪ももらえなかったのに、今度はポイ捨てされてるわ」

 その声は決して大きくはなかったが、血がにじむほど鋭かった。

 もしこれが昨日なら――私がまだ「控えめな」彼女の役を演じていたなら――人目を避けるために貨物用のエレベーターに乗っていただろう。しかし今日、私の履く十三センチのジミーチュウのピンヒールは、大理石の床にリズミカルな音を響かせ、私は役員用エレベーターへとまっすぐに歩を進めた。

「絵梨奈さん!」受付嬢が息を呑み、私の行く手を遮るように前に出た。「そちらは役員専用のエレベーターで……」

 私は立ち止まり、彼女を見据えた。

 私の瞳に、彼女が普段から見慣れている下っ端秘書の従順な温もりはなかった。代わりに宿っていたのは、神崎の血筋が放つ氷のような威圧感だ。彼女は言葉を失い、本能的に一歩後ずさった。

 鏡面仕上げのエレベーターの扉が閉まる。内部は完全な静寂に包まれ、ロビーに漂う「捨てられた元カノ」という嘲笑の囁きから私を完全に切り離してくれた。

 私は社長室のボタンを押さなかった。向かったのは人事部だ。

 人事部長室のドアは少し開いていた。中から、聞き慣れた下品な笑い声が漏れ聞こえてくる。健人――翔太の大学時代の親友であり、自称「最高の相棒」である男が、マホガニーのデスクに両足を投げ出し、スマートフォンをスクロールさせていた。間違いなく、昨日の騒動に対するネットのコメントでも読んでいるのだろう。

 私はノックもせずに足を踏み入れ、彼の目の前のデスクに退職届を叩きつけた。

「退職します。今日付けで」

 健人はビクッと身をすくませてデスクから足を下ろした。それが私だと気づくと、その唇の端を歪めて冷笑した。彼は汚れたティッシュペーパーでも扱うかのように、二本の指でその紙切れをつまみ上げた。

「絵梨奈、マジかよ? 昨日の夜、翔太にすっぽかされたからって癇癪起こしてんのか? 大目に見るにも限度ってもんがあるぞ」彼は文面に目を通そうともしなかった。「何だよこれ? 退職届をチラつかせて気を引きたいわけ? 翔太は昨日の夜、人の命を救ってたんだぞ。いい加減、ガキみたいな真似はやめろよ」

「サインして」私の声に感情は一切こもっていなかった。

 健人は呆れたように目を剥き、署名欄へと視線を落とした。そして、その視線がピタリと止まった。

「苗字は……神崎だと?」

 一瞬の沈黙の後、彼は吹き出すように短く高笑いした。まるで、この世で最も馬鹿げた冗談を聞いたかのような笑い声だった。

「すげえな。いや……マジですげえよ。絵梨奈、お前って自分を特別に見せるためなら本当に何でもするんだな」彼は爪で紙をピンと弾き、ピシッと鋭い音を立てた。「神崎? なあ、俺だって自分の苗字が冴島とか神崎だったらどんなにいいかって思うぜ。でもな、大人は現実を生きなきゃならないんだよ。名家の令嬢のフリをするのがどれだけ痛々しいか分かってんのか? 虚栄心が強いだけじゃない、安っぽいんだよ」

 彼はその退職届を、まるでゴミでも捨てるかのように私に向かって投げ返した。

「夢から覚めろよ、シンデレラさん」彼はハエを追い払うように、シッシッと手を振った。「あのボロアパートに帰って、翔太の怒りが収まるのを待つんだな。運が良ければ来週には、またコピー取りくらいはさせてもらえるかもな」

 あのボロアパート。

 そうか、翔太の取り巻き連中も全員知っていたのだ。あそこがただの家畜の囲いのような場所であることを。

「信じてもらわなくて結構よ」私は床に落ちた退職届を拾い上げながら言った。その口調は、今日の湿度の話でもしているかのように淡々としていた。「契約違反の違約金については、私の専属弁護団から直接、法務部へ連絡させるわ。私はただ、通達しに来ただけだから」

 その時、オフィスルームのドアが勢いよく開け放たれた。

 翔太が血相を変えて飛び込んできた。彼からは、病院の消毒液の匂いと、結衣が愛用している甘ったるいバニラの香水の匂いが漂っていた。ネクタイは歪み、徹夜明けの目は赤く血走っている。

「絵梨奈!」私の持っているスーツケースを目にした瞬間、彼の顔に浮かんでいた疲労感が怒りへと歪んだ。「結衣はまだ絶対安静の危険な状態なんだぞ。今このタイミングで、さらに俺を煩わせる必要があるのか? 今までみたいに、家で大人しく待っていられないのか!?」

「あそこは家じゃないわ、翔太」私は彼を真っ直ぐに見つめた。彼の姿を真の目で見据えた時、六年間もずっと見上げてきたこの男が、実はひどくちっぽけな存在であることに初めて気がついた。「あそこは、ただの鳥籠よ」

 翔太の顔色がサッと険しくなった。怒鳴りつけようと口を開きかけたが、ガラス張りの壁の向こうで、社員たちが首を長くして中の様子を窺っているのが視界の隅に入ったようだ。

 抑えきれない苛立ちは、瞬時に彼の顔から消え去った。代わりに浮かび上がったのは、場をコントロールしようとする、慈悲深い寛容さという仮面だった。

「君は今、少し情緒不安定になっているんだ」彼はネクタイを緩めながら、いかにも理性的で穏やかな声色を作った――ヒステリーを起こした女を宥める、疲れ果てたヒーローを演じるかのように。「家に帰って少し眠りなさい。頭を冷やすんだ。今夜、埋め合わせのディナーを予約する。君の職場復帰については、その時にゆっくり話そう」

 彼は一歩近づき、私の襟元を直すふりをして耳元へと顔を寄せた。そして、威嚇するような低く冷たい声で囁いた。

「いい加減にしろよ、絵梨奈。ここを出て、お前に一体どこへ行く当てがあるって言うんだ? 冴島グループを離れたら、この街じゃ誰も見向きもしてくれないぞ。少しばかり俺の気を引きたいからって、自ら袋小路に突っ込んでいくような真似はやめろ」

 私は危うく吹き出しそうになった。

 行く当てならあるわよ、翔太。でもそこは、あなたが魂を売り払ったところで、決して足を踏み入れることすらできない場所だけれどね。

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