第3章
井上結衣視点
結局、考えるのは諦めてベッドに入った。
翌朝、目を覚ますと、寝室の窓から太陽の光が降り注いでいた。至福の一瞬、私はすべてを忘れていた。けれど次の瞬間、すべてがどっと蘇ってきた。結婚式場。バージンロードを走り去る慎二。佐藤由実。空港での、あの写真。
昨日のことって、本当にあったの? あれは現実だったの?
でも、ベッドの隣にある空っぽのスペースは本物だった。寝室の床にぐしゃぐしゃになったウェディングドレスも本物。客間で眠っている、あの不思議な女の子も、間違いなく本物だった。
私は横になったまま、頭の中でひとつひとつの酷い瞬間をなぞっていた。美佳が慎二をパパと呼んだときの彼の顔。驚きと希望が入り混じったような、彼女を見るあの眼差し。まるで私から一刻も早く逃げ出したいというかのように、あの結婚式場から飛び出していった彼の速さ。
思い出すだけで、胸が痛んだ。
ベットサイドテーブルの上でスマホが震えた。また震える。そして、また。
手に取ると、画面が親からのメッセージで埋め尽くされていた。母からは少なくとも十五件は来ている。
「結衣、大丈夫? 起きたら電話してちょうだい。お父さんが山崎家と話してるから。慎二くんは謝るって、彼らが約束したわ。こんなこと、絶対に許さないからね」
父からのメッセージは短かったけれど、心配しているのは同じだった。
「お母さんに電話しなさい。愛してるよ。あの子にちゃんとケジメをつけさせる!」
私は画面をじっと見つめた。慎二くんは謝るって。まるで謝罪で彼のしたことが帳消しになるみたいに。
私は返信した。「大丈夫だから。心配しないで。慎二とはもう終わり。前に進むから」
すぐに母から返事が来た。「あなた、今すぐ何も決めなくていいのよ。時間をかけて考えなさい」
「もう考えた。本当に大丈夫だから。お願いだから、事を大きくしないで」
これ以上言い争う前に、私はスマホを置いた。慎二が結婚式場から走り去った瞬間に終わってしまった関係を、親に修復させようとされるのだけはごめんだった。
考えるのをやめよう。起きて、何かをしなきゃ。
ベッドから這い出て、キッチンに向かった。料理をするといつも頭がすっきりする。卵、ベーコン、トースト。
フライパンに卵を割り入れていたとき、背後から小さな足音が聞こえた。
「おはようございます」美佳ちゃんがキッチンチェアの一脚によじ登りながら言った。彼女の足はぶらぶらしていて、床には到底届きそうにない。昨夜渡したTシャツに着替えていて、髪の毛があちこちに変な方向にはねていた。
「おはよう」私は平静を装って言った。「よく眠れた?」
「うん」彼女は足を前後にぶらぶらさせながら、私が料理するのを見ていた。「泊めてくれてありがとう」
「どういたしまして」私はベーコンをひっくり返した。「お腹すいた?」
「はい、お願いします」
それから私たちは話すことなく、不思議と心地よい静けさに包まれた。フライパンでベーコンがジュージューと音を立てる。美佳ちゃんの足が椅子の脚をこつこつと叩く。まるで二十四時間足らずじゃなくて、ずっとこうしてきたみたいに、奇妙なくらい自然に感じた。
トーストにバターを塗り、冷蔵庫からジャムを取り出す。「いちごジャムとピーナッツバター、どっちがいい?」
「いちご!」美佳ちゃんの顔がぱあっと輝いた。「ピーナッツバターは嫌い」
私の手はジャムの瓶の上で固まった。「ほんと? 私も。みんなに変だって言われるのに」
「変じゃないよ」美佳ちゃんは私に微笑んだ。「いちごジャムのほうがずっと美味しいもん」
私は彼女のトーストにいちごジャムを塗って、テーブルの向こう側へお皿を滑らせた。彼女はすぐに大きな一口を頬張り、まるで今まで食べた中で一番美味しいものみたいに目を閉じた。
「おばさん」彼女は口いっぱいに頬張ったまま、もぐもぐと呟いた。「朝ごはん作るの、すごく上手」
「気に入ってくれてよかった」私は自分の皿を持って席についた。「卵も食べる?」
私が聞き終わるか終わらないかのうちに、彼女はこくりと頷いて卵に手を伸ばした。
私たちはあまり話さずに一緒に食事をした。時々、彼女が何か言いたげで、でも言葉が詰まっているような、読み取れない表情で私をじっと見つめているのに気づいた。でもほとんどの時間、彼女はただ足をぶらぶらさせながら、普通の子どものように朝ごはんを食べていた。
なんだか、いいな。……なんて、どうしてそう思うの? あの子が私の結婚式をめちゃくちゃにしたのに。
でも、彼女を怒ることはできなかった。いちごジャムのトーストをあんなに幸せそうに食べているのを見ると。
玄関のチャイムが鳴った。
美佳ちゃんのフォークが口元で止まる。私たちは顔を見合わせた。
「ここにいて」私は言った。
ドアまで歩いていき、覗き穴から外を見る。胃が床まで一直線に落ちていくような感覚がした。
慎二。彼のご両親。私の両親。全員が廊下にひしめき合って、緊張した、惨めな顔で立っていた。
やめて。お願い、やめてよ。まだ心の準備ができてない。
でも、彼らを外に立たせておくわけにもいかない。私は息を吸い、手ぐしで髪を整え、ドアを開けた。
「結衣、あなた――」母が言いかけたが、慎二のお母さんがその言葉を遮った。
「結衣」慎二のお母さんは罪悪感で顔をくしゃくしゃにしていた。「昨日のことについてお話しなければ。起きてしまったことは……とうてい受け入れられることではありませんでした」
「言葉を選べばそうなるな」父が呟いた。
慎二のお父さんはスリーピースのスーツ姿で、厳格で居心地悪そうにそこに立っていた。「我々家族は、あなたに謝罪する義務がある。慎二、言いなさい」
全員の視線が慎二に集まった。
彼はひどい顔をしていた。いつもと同じ高価なスーツを着ていたけれど、目は充血し、肩はこわばっていた。
「結衣、俺は――」
「なあ、昨日のことが大惨事だったのは分かってる」彼は言ったが、その声に謝罪の色はなかった。どちらかというと、自分を弁護しているように聞こえた。「でも、彼女に会いに行かなければならなかったんだ。由実に会わなきゃならなかった。分かってほしい。俺は七年間、彼女が俺を望まなかったから去ったんだと思ってた。なのに、自分の母親が彼女の家族を脅して、姿を消させたと知ったんだ」
「慎二」慎二のお母さんが鋭く言った。
「本当のことだろ!」彼は母親の方へくるりと向き直った。「母さんは知ってた。彼女が流産したことを知ってて、それでも彼女を追い出したんだ」
待って。……流産?
「その話は後でできる」慎二のお父さんが割って入った。「今は結衣に誠意を見せるためにここにいる」
慎二は私の方を向き直った。「タイミングが悪かったのは分かってる。本当に、最悪だった。でも……由実とのことをはっきりさせなきゃならないんだ。俺にはその責任がある。それで……」彼は、まるでこれがすべて至極当然のことであるかのように、少し微笑みさえした。「そしたら、結婚式をやり直せる。来年の春とかどうかな? みんなが落ち着く時間もできるだろうし」
私は彼をただ見つめた。自分が何を言われているのか、文字通り、信じられなかった。
