第2章

 扉は持ちこたえていた。

 向こう側にいるのが聞こえる――侵入しようとしているわけじゃない。ただ待っている。フェラルはそういうことをする。中に何かがあると分かっていて、なおかつその空間に入れないとなれば、あいつらは平気で粘る。

 私は電源室の奥の壁に背を押しつけ、呼吸の数を数えた。一、二。手は震えていたけれど、数えられる。だから続けた。

 機器が低く唸っている。私は主パネルの陰に身を潜めた。

 外のそれが何を追っていようと、機械から発生する場が、侵入を阻むには十分だった。それだけでいい。

 廊下で何かが擦れる音がした。――そして、無音。

 やがて足音。遠ざかっていく。

 さらにきっかり一分、待った。

 よし。

 非常用ビーコンは副ヒューズ盤の脇に取り付けられていた――こういう建物なら、まさにそこにあるはずの位置だ。蓮が以前、誰かとの会話で一度だけ口にしていた。私に聞かせるつもりのない場面だった。私はそれを起動し、灯りが緑に変わるのを見届けた。

 発信完了。あとは、誰かが受けていればいい。

 あとは動きながら組み立てた。サービス階段を上がり、防火扉を抜けて保守用のヤードへ。二百メートルほど先に、廃止された工業用タワーが固まって立っている。何年も誰も施錠していないフェンスがそのまま残っていた。私は一番近い塔に取りつき、四方が抜けた空の見える足場を見つけるまで登って、腰を下ろした。

 それから、待った。

 一時間が過ぎた。たぶん、もっと。

 ――来ない。思考は平坦に届いた。大げさでもなく。――あなたのためには。

 前の人生では、彼は奈美のために一時間もかからず戻ってきた。記録的な速さで。この人生では、奈美は彼の隣の車の座席にいる。塔の上にいるのは私だ。

 その考えを押し沈め、私は地平線を見張り続けた。

 手首のブレスレットは、登ってからずっと温かかった――金属が体温を抱え込んでいるだけだと思っていた。でも冷めない。手首を返し、内側に指を押し当てる。そこも同じ温度で、一定で、薄気味悪いほどだ。運動のせいだと片づけ、また街の輪郭へ視線を戻した。

 そのとき、頭上の空を影が横切った。

 速すぎる。ドローンでもない、きれいに名付けられる何かでもない。それは落ちてきて、足場が一度だけ震え、気づけば彼は三歩ほど先にしゃがみ込んでいた。最初からそこにいたみたいに。

 彼は私の顔を見る前に、私の手を見た。

「怪我は?」

「気づいたのは――」

「いい」彼はもう、ジャケットの内側からキットを取り出している。

 登る途中で両手のひらを切っていた。深さを感じていなかったのに、彼が手を返した瞬間、はっきり分かった。彼は何があったのかを訊かない。何ひとつ訊かないまま、淡々と傷を処置した。私はようやく彼をまともに見た。黒髪。落ち着いた所作。見た目より十歳は上に見えるのに、顔を確かめるようにちらと上げたとき、その瞳が眼下の街灯りを拾って、場違いなくらい明るく見えた。

 彼の手はぶれない。優しいというより――慎重だ。自分のしていることに、ちゃんと意識を向けている種類の慎重さ。

 蓮は傷の手当てを、書類に署名するときと同じようにやった。そこにいる。正しい。けれど心はもう別の場所。

 違いに気づいてしまった。言い訳する前に。

「こっちは深い」彼は私の右の手のひらに布を押し当てた。

「圧迫して」

 私は言われた通りにした。

 彼は包帯を固定し、それから水のボトルを渡してきた。さらに同じジャケットのポケットから、無言でプロテインバー。私は考える間もなく食べた。それで分かった。どれだけ長いこと、まともに口にしていなかったか。

 彼は立ち上がって足場の端へ移動した。私を見張っているわけじゃない。

 近くの計器パネルの黒い面に、自分の顔が映った。目が濡れている。そうなった瞬間を、私は感じていなかった。

 五年間、一度も。誰かの前で、何も見せないまま。ひび割れを一つ残らず数え上げ、後のために仕舞い込む人間の前では。なのに、名前も知らない男に出会って一時間で、私の中の何かが、勝手にほどけてしまっていた。

 彼が振り向く前に、私は拭った。

 彼はずっと、街の輪郭を見ていた。

 戻ってくると、彼は私の名前を口にした。

「神崎結衣」

 問いかけではない。

 どうして知っているのか、私は訊かなかった。

「氷室蒼一郎」

 彼は一度だけ頷いた。それで何かが確かめられたみたいに。

「連絡すべき相手はいるか?」

 考えた。蓮は戻ってくると言った。言いながら、もう背を向けて歩いていた。

「いない」私は言った。

「誰も」

 彼はそれを、さっきまでのすべてと同じように受け入れた。追い質問もない。哀れみを示すための表情を作ることもない。もう次のことを考えている。

 胸の奥で、何かが静かになった。何年もそうならなかった静けさで。

 私は眼下の街灯りを見つめ、名前をつけようとはしなかった。

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