第3章

空良視点

寝室を出ると、将臣はもうキッチンにいた。コーヒーの香りが漂っている。

「コーヒー飲むか?」彼はカプチーノを差し出してきた。

「ありがとう」

私は窓際に腰を下ろし、温かいカップを指で包み込んだ。将臣は私の向かいに座る。あの灰青色の瞳が、また私に向けられている。私は代わりにスカイラインに視線をやった。

パーティーから三週間。初めて彼の部屋に泊まってから二週間。彼のバスルームには私の歯ブラシ。クローゼットには私の服が数着。すべては計画通りに進んでいる。順調すぎる。ほとんど簡単すぎると言っていいくらいに。

「何を考えてる?」

「ん?」

「さっきから俺の書斎ばかり見てる」

心臓が跳ねた。しまった。そんなに分かりやすかっただろうか?

「ただ……なんだか、これが全部、現実じゃないみたいで」

「何がだ?」

「これよ」私はあたりを指し示す。「あなたも、私も。三週間前は、お互いを知りもしなかったのに」

将臣はフォークを置いた。「本当に合う相手と出会った時、時間は関係ない」

喉が詰まる。彼は『合う相手』なんかじゃない。マサイマラを破壊している張本人だ。私はコーヒーに視線を落とした。

「私が『合う相手』かどうか、分からないわ」

「俺はそうだ」彼の声に迷いはなかった。

沈黙が続く。やがて、彼は身を乗り出した。

「今日、会社に来い」

「え?」

「俺の世界を見せてやりたい」彼は一呼吸置いた。「役員会でケニアのプロジェクトについて話し合う。君の意見が聞きたい」

頭が混乱する。計画と違う。彼のオフィスに忍び込んで、ファイルを盗むはずだったのに。彼の方から招待してくるなんて。

「でも、私、ビジネスのことは何も知らないわ」

彼は私の手を掴んだ。「君は自然保護を知っている。君の視点が、俺にとっては重要なんだ」

一時間後、私は役員会議室にいた。長いテーブル、革張りの椅子、窓の外には街を一望できる景色が広がっている。

スーツ姿の役員たちが続々と入ってくる。彼らは私を見ると、じろじろと視線を向けてきた。将臣が役員会にゲストを連れてくることなど、今までなかったのだろう。

「諸君、こちらは花見空良さんだ。野生動物の写真家で、彼女の専門知識は我々にとって有益なものになるだろう」彼の口調は、一切の反論を許さないものだった。

懐疑的な視線がいくつか向けられるのを感じる。年配の男性の一人は、あからさまな疑いの目を私に向け続けていた。私はカバンの中でスマホの録音機能を起動させ、静かに座っていた。

プロジェクターが灯り、マサイマラの衛星写真が映し出された。

心臓が激しく脈打つ。

禿頭の副社長が立ち上がる。「リゾート計画についてです。三百億円の投資。富裕層向けのラグジュアリーな野生動物体験。ヘリコプターでのアクセス、五つ星のダイニング、インフィニティプール……」

スクリーンに映し出されたのは、計画されているリゾートの完成予想図。巨大な建物、プール、ヘリポート。サイの生息地のど真ん中に。

私は必死で表情を平静に保つ。テーブルの下で、指を強く握りしめた。

年配の役員の一人が口を開く。「このロケーションは……野生動物の妨げになるのではないかね? 環境報告書には絶滅危惧種についての記載があったはずだが……」

将臣の表情が冷たくなった。「原島、我々はビジネスをしに来たんです。慈善事業じゃない」

「しかし……」

「過度な環境配慮で利益を損なうわけにはいかない。法的な最低限の基準は満たす。それだけでいい」彼の声には、絶対的な権威が宿っていた。

吐き気がこみ上げてくる。私は何も知らない恋人のふりをして、そこに座り続けた。スマホがすべてを記録していく。

別の役員が口を挟む。「地元の部族の移住については……」

「すでに処理済みです」副社長が滑らかに答える。「補償金は提示しました。大半は移住に同意しています」

「大半?」

「一部の抵抗勢力は問題になりません。地元当局が対応します」

それが何を意味するのか、私には分かっていた。強制退去。金をばらまき、彼らの先祖伝来の土地を破壊する。爪が手のひらに食い込む。

将臣が私の方を向いた。「空良、野生動物の専門家として、どう思う?」

全員の視線が私に突き刺さる。

私は一息ついた。「とても綿密な計画ですね。ただ、建設工事がクロサイの移動にどう影響するかが少し心配です。彼らは生息地の変化に敏感なので」

副社長は、そんなこと大した問題ではないとでも言うように手を振った。「それは一時的なものです。動物は順応しますよ」

思わず声が大きくなる。「本当にそうでしょうか? クロサイはもう五千頭も残っていません。慎重にならなければ……」

原島が、不親切な口調で私の言葉を遮る。「花見さん、失礼ながら、あなたは写真家であって生態学者ではない。我々にはプロの評価チームがいます」

私は唇を噛んだ。

将臣がテーブルを叩く。「では、今日はここで」

役員たちが部屋を出ていく。二人きりになった。

「ごめんなさい。余計なことを言うべきじゃなかったわ」

「いや」彼は歩み寄ってきた。「いい指摘だった。いくつか、考え直すべきかもしれない」

私は顔を上げた。心から驚いていた。「本当に?」

彼は私の頬に触れる。「君のためだ。もっと良い男になりたい」

胸が締め付けられる。やめて。お願いだからやめて。彼の声は、あまりにも誠実に響いた。

その夜、将臣は書斎で遅くまで仕事をしていた。

私はベッドに横になり、待っていた。真夜中。彼の足音が近づいてくる。

私は眠ったふりをした。呼吸を整える。

彼が入ってきて、ベッドのそばに立ち、私の額に優しくキスをした。

「おやすみ、空良」と彼は囁いた。

ドアが閉まる。

私は目を開けた。十分待つ。

そして裸足でそっと抜け出し、書斎へと向かった。

ごめんなさい、将臣。でも、これをやらなければならないの。

書斎のドアに鍵はかかっていなかった。押し開ける。月明かりが差し込んでいる。机の上にはノートパソコン。

私は椅子に座り、パソコンを開いた。パスワードが要求される。

くそっ。

いくつかの組み合わせを試す。彼の誕生日。会社名。すべて違う。

指がキーボードの上を彷徨う。もう一度だけ。

私は自分の誕生日を打ち込んだ。1997-05-17。

画面のロックが解除された。

私は固まったまま、画面を見つめた。待って。私の誕生日をパスワードに? どうして彼は私の誕生日を知っているの? 教えたことなんてない。まさか……私を調査した?

そんなことを考えている時間はない。私は頭を振り、カバンから充電ケーブルを取り出して、スマホとパソコンを接続した。

ファイルエクスプローラーが開く。素早く操作する。銀行の記録フォルダ。内部メモ。会議の録音。必要なものはすべてここにあった。

転送を開始すると、手が震えた。プログレスバーがゆっくりと進んでいく。15%。23%。38%。

早く、早く。

心臓の音がうるさくて、彼を起こしてしまうのではないかと不安になる。何度もドアに目をやった。

67%。81%。94%。

もう少し。あと数秒。

転送完了。

ケーブルを抜き、フォルダを閉じる。奇妙な高揚感と吐き気が同時に押し寄せてきた。これで全て手に入れた。彼を破滅させる、すべてを。

指が電源ボタンに伸びる。

「何か探し物か?」

私は凍りついた。

将臣が腕を組んで、戸口に立っていた。

しまった。

「眠れなくて……。お仕事、まだ終わらない?」

彼はゆっくりと歩み寄ってくる。心臓が激しく脈打つ。

そして、彼の腕が後ろから私を包み込んだ。

「仕事は後でいい、空良。今は……お前が欲しい」

彼の手が、私のパジャマのボタンを外し始める。

頭が真っ白になる。彼を突き放して、言い訳をしなければ。しかし、彼の唇が私の首筋に触れた途端、抵抗する力は崩れ去った。

私がすべてを盗み出したばかりの机の上で、私たちは体を重ねた。将臣はいつもより乱暴で、まるで所有権を主張しているかのようだった。

私は目を閉じたままにした。彼の顔を見ることができない。

もし見てしまったら、泣いてしまうかもしれないから。

午前三時。将臣は私をベッドまで運び、すぐに眠りに落ちた。

私は天井を見つめたまま横たわっていた。涙が静かに頬を伝う。

ナイトスタンドには私のスマホ。あのファイルは今、この中にある。ケニアの役人を買収した銀行の送金記録。秘密会議の録音。マサイ族を強制的に立ち退かせる計画。そして、将臣が自ら署名したメモ。

彼を破滅させる、すべてを持っている。

なのに、私の手は震えが止まらない。

隣で、将臣が呟く。「空良……」

私は彼の方を向いた。月明かりの下、彼の顔は穏やかで、まるで無垢な子供のように見えた。

違う。彼は無垢なんかじゃない。この証拠は本物だ。

でも、私の心はそれに同意しない。

私は、彼に本気で恋をしてしまったのだ。

私が破滅させるべき男に、恋をしてしまった。

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