第2章 まだ甘いな
「あなた、何言ってるの? この子は私たちの娘よ。ここにいるのが当たり前でしょう!」松本萬里も、さすがに声が荒くなった。
「お前は本当に……愚かだな!」神野孝峰は苛立ちを隠しもせず吐き捨てる。
神野若芽が現れたせいで、家の空気は一気に荒れた。まるで泥水をぶちまけたみたいに、落ち着きが消えていく。
「お父さま、どうか怒らないで。お身体に障ります」
柔らかく、気遣う声。けれど続く言葉は、針を含んでいた。
「お母さまも、きっと事情をご存じなかったんだと思います。でも……もしお姉さまが神野家の血を引いているなら、それは本当に喜ばしいことです。ただ、世の中には……騙して入り込む人もいますから。そこだけが、怖いですね」
口を開いたのは、年上の妹――神野若奈。彼女の立場は少し複雑だ。
若奈の実の両親は、生後半年で交通事故に遭い亡くなった。神野孝峰はかつての親友の娘だった彼女を引き取り、実の娘同然に育ててきた。与えられるのはいつも最上のもの。本人もまた優秀で、聞き分けがよく、才もある。家族の寵愛を一身に受けている。
だからこそ、若奈の言葉はこの家の中で重い。
皆が、その含みを一瞬で理解した。
神野若芽は唇を軽く結び、口角をほんの少しだけ持ち上げる。薄い嘲り。
――面白い。
「若奈、やっぱりお前は父さんのいい子だ」神野孝峰の怒りが少しだけ引いた。
「そうだ、明日は演奏会だったな。父さん、見に行くぞ」
「うん、お父さん。頑張るね」若奈は照れたように微笑んだ。
「若奈姉さん、明日も絶対いちばん上手だよ。憧れのウィングみたいにね」
神野若帆が甘ったるい声を作り、すぐ棘を混ぜる。
「……それに比べて、田舎から来た人はピアノが何かも知らないんじゃない?」
わざと若芽を見た。
ウィング。
――へえ。偶然。
神野若芽は精巧な人形みたいに無表情のまま、ただ立っている。
嘲られても、噛みつきもしない。
鈍いのか、と言いたげな視線が飛ぶ。神野孝峰はそれが余計に癇に障った。
「疲れた。休みたい」若芽が、淡々と告げた。
その一言で、家族の顔色が変わる。
図々しい――そんな空気が、はっきりと漂った。
若帆は目を細め、鼻で笑う。
「母屋の裏に別棟があるよ。静かだし、休むならそこが一番」
声には軽蔑が滲んでいた。
「若帆、何言ってるの。あそこは使用人の部屋よ。お姉ちゃんにそんなところ……」萬里が咎める。
だが、耳ざとい年配の声がすぐ拾った。
「別棟でいいじゃないか」
神野大奥様が冷たく言い放つ。
「孤児院よりはマシだろう。人は見かけによらない。用心するに越したことはない」
萬里は、どこから湧いたのか分からない勇気で言い返した。
「お義母さま。若芽の部屋は三階に用意しました。この子は大人しい子です。皆さんの迷惑にはなりません」
そして若芽に向き直る。
「行きましょう。ママが案内するわ」
今日の反応は、萬里の想像を超えていた。子どもに、余計な屈辱を背負わせてしまった。
若芽は黙って彼女に従い、三階へ上がる。いちばん端の部屋。扉を開けると、室内はきちんと整えられていた。確かに、急いででも用意した形跡がある。
「若芽、ごめんね。まだあなたのことを知らないから、言い方がきつくて……気にしないで」萬里は痛ましげに言った。
「大丈夫。気にしてない」若芽は淡々と返す。まるで自分のことではないみたいに。
「うん。じゃあ食べ物を持ってくるね。少し休んで」萬里はほっとしたように微笑み、部屋を出ていった。
その頃、一階の食卓は火がついたようだった。
「最悪。知らない人が家にいるってだけで落ち着かない」若帆が白目を剥き、露骨に嫌悪を滲ませる。
ママは本当に甘い。今どき詐欺師なんていくらでもいる。どうせ金目当てだ。
「若帆、相手にしなければいい」大奥様が皺を深くし、辛辣に言う。
「うちは金持ちだから一人増えたって困らない。でも住まわせるとなると話は別だよ。揉め事を起こされても困る」
「面倒だ」神野孝峰はこめかみを揉んだ。
「中学出てから勉強もしてないんだろ。粗野な娘に学校まで用意しろって?」
正直、父親としての情は湧かない。
頭をよぎる資料。
神野若芽、18歳。中卒。成績不良、無断欠席が多い。二年間失踪し、働いていたらしいが詳細不明。最近になって孤児院に戻った――。
今の家の形に満足していたのに、突然『娘』が現れた。
血が繋がっていても、一緒に暮らしていないなら他人同然だ。
それに――当時、彼女がいなくなった事情を、神野孝峰は知っている。
「お父さん、私、同じ学校は嫌。恥ずかしすぎる」若帆が声を上げた。
川市第一中学は名門だ。若奈と若帆は同学年だがクラスは違う。若奈は特進で常に上位、1位か2位を取る本物の優等生。若帆も選抜クラスで上位、いつもトップ3に入る。
二人は神野孝峰の誇りだった。保護者会に行けば、褒め言葉ばかりで笑いが止まらない。
そこへ『中卒の姉』が入ってくるなんて、足を引っ張る未来しか見えない。
「若帆、これは後で話そう」神野孝峰は宥めるが、内心は頭を抱えていた。
――階下が騒がしい一方、三階は冷えた静けさ。
若芽はベッドに横たわっていた。そこへスマホが鳴る。
ゆっくり目を開け、通話ボタンを押す。
「……何」声は冷たい。
だが相手は慣れているらしく、熱量そのままに言った。
「若芽さん! 明日のmkのオークション、いいの出ます。来ます?」
慎重で、期待に満ちた声。敬意が滲む。
電話の相手は若芽の友人、吉川英。情報網が広く、旨い話があれば真っ先に彼女へ流す男だった。
