第5章 邪魔するな
さっきまで騒がしかった会場が、ふっと息を止めたみたいに静まり返った。
――正気か? 札束を木の葉だとでも思ってるのか。
こんな小さな玉が、120億?
視線がいっせいに神野若芽と吉川英へ集まる。
あの二人、頭がおかしいんじゃないか――そんな顔だ。
若芽は口元をひくりとさせた。落札額なんて本人の自由だろうに、まるで見世物扱い。腹立たしい。
吉川英を見ると、彼は両手を軽く上げて「勘弁してくれ」とでも言いたげに肩をすくめた。
……正直、吉川英の心臓はいまだにぶるぶる震えている。
「120億、3回目――落札!」
カン、と木槌が鳴る。
「おめでとうございます。吉川様、古玉の落札です!」
拍手が起きる。吉川英は苦笑した。
――いや、俺、ただの付き添いなんだけど。
羨望と嫉妬が入り混じった視線を浴びながら、吉川英は手続きのために席を立った。
若芽は小声で言い添える。
「古玉を受け取ったら、銀行の貸金庫に入れて。あとで使うから」
「はい。お任せください」
若芽さんの役に立てるなんて光栄だ。頼みたくても頼めない人間が山ほどいる。
若芽は小さく頷く。
「うん。お願い。私は先に帰る」
吉川英は指で丸を作ってみせた。若芽が忙しいのは分かっている。
若芽が立ち上がり、踵を返した、その瞬間――
どん、と胸にぶつかった。
権田真鳥の身体。まるで最初から通路を塞いで待っていたみたいに、そこに立っていた。
男の匂いが、熱を帯びて鼻を突く。
若芽は足を止め、胸元から顔を上げる。
視線が絡む。真鳥の瞳は深く、底が見えない。
「どうした、そんなに名残惜しいのか?」
真鳥は唇の端をわずかに吊り上げ、嘲るように笑った。耳元へ寄せた吐息が、温く若芽の耳を撫でる。
若芽の肩が小さく震える。眉を寄せ、すぐに距離を取った。
「邪魔」
吉川英が言っていた。さっきまで競り合ってきたのは、この男だと。
真鳥の顔が一気に沈む。瞳がきゅっと細まった。
――俺に、その口を利く女がいるだと?
脇で聞いていた青木啓が、内心で冷や汗をかく。
権田真鳥にあんな言い方をした人間なんて、見たことがない。いや、そもそも生きていられるのか。
「なぜそこまでして、あの古玉に執着する」
真鳥の声は低い。少女が120億を出す理由が理解できない。
若芽は淡々と返す。
「好き。それじゃだめ?」
「……だめじゃない」
真鳥の目が、ほんのわずか揺れた。
若芽はこれ以上相手をする気がない。数歩下がり、短く告げる。
「失礼」
そして身をひねり、彼の脇をすり抜けた。
すれ違いざま、淡い橘子花の香りが真鳥の鼻をくすぐる。胸の奥に、妙に残る匂いだった。
真鳥はすぐ平静を取り戻し、去っていく背中を見つめる。思案するように。
青木啓が肩をすくめる。
「権田、あれは手強いぞ。健闘を祈る」
真鳥は取り合わず、寺内七造へ命じた。
「七造。あの女の身元を洗え」
「承知しました、旦那」
七造が静かに頷いた。
……。
神野若芽が家に戻ったのは遅かった。オークションで時間を取られ、昼食はとっくに終わっている。家族はリビングで談笑していた。
神野若帆は神野大奥様に寄り添い、何か話しては笑わせている。室内には穏やかな空気が流れていた。
そこへ若芽が扉を開けて入った瞬間――空気が凍った。
視線がいっせいに玄関へ向く。
若芽は何事もない顔で歩み入る。淡い表情、我関せず。
それが癪に障ったのか、神野家の大家長がついに口を開いた。
「ここを何だと思ってるんだい。孤児院と同じ感覚か? 出入りが勝手すぎる。神野家は顔のある家だ。外に知られたら恥だろう」
「ほんと。性根がまるで変わってない。野良猫みたい」
若帆は大奥様の後ろ盾を得て、言いたい放題だ。
大奥様も続ける。
「若奈や若帆を見習いな。女の子が外をふらふらして、みっともない」
若芽は黙って立っていたが、やがて淡く言った。
「終わった?」
我慢しているだけで、気がないわけじゃない。長々と説教を聞かされるのは限界だった。
「年上の話にその態度かい!」
大奥様が怒り、手にしていた茶杯を投げつけた。
距離があったのが幸いで、茶が少し足元に跳ねただけで済む。
若芽の顔が一瞬で冷える。氷みたいに。
大奥様を見据える目は矢のように鋭く、背筋が寒くなる。
大奥様は思わず息を呑んだ。
――何だ、この子……不気味だよ。
そのとき、部屋から松本萬里が出てきた。若芽を見つけるなり、ぱっと顔を明るくする。
「若芽! どこに行ってたの? 心配したのよ。ご飯は食べた?」
若芽の表情が少しだけ緩む。誰が本気で自分を気にかけているか、若芽には分かる。
若芽は頷いた。帰り道、空腹に負けて牛肉ラーメンを一杯食べたのだ。
「じゃあ、あとでスマホ買いに行きましょう。連絡できるように」
萬里は自責していた。連絡しようとして、番号すら知らないことに気づいたのだ。若芽の端末は古い簡易携帯で、今どき見かけない類だった。
「ふん、無駄遣いばかり。うちの息子が稼ぐのも楽じゃないんだよ」
大奥様が嫌味を言う。
萬里は珍しくきっぱり返した。
「お母さま。若芽も私の子です」
「……ふん」
大奥様は鼻を鳴らし、部屋へ戻ろうとする。
若帆が慌てて支える。転ばせでもしたら大変だ。
大奥様は満足そうに笑った。
若帆も口元を上げる。
神野若芽、覚悟しなさい。面白いことはこれから。すぐに思い知るんだから。
