第1章
綾乃礼央視点
シャンパンの泡が夜風に震える中、私ははっと目を覚ました。
潮風が顔を撫で、遠くにはY市のネオンが瞬いている。心臓が激しく脈打ち、そばの手すりを強く握りしめる――ここは瀬川家のプライベートヨット。三年前の、瀬川空栖、二十五歳の誕生日パーティーだ。
私は、生まれ変わったのだ。
「……最悪」
泡立つシャンパンを見つめ、私は呟いた。過去の人生のすべてが蘇る――瀬川江の偽善的な顔、瀬川紀子の冷酷な計算、そして、私の結婚式の日にビルから飛び降りた空栖の姿が。
「綾乃さん、大丈夫ですか?」と、若いウェイターが心配そうに声をかけてきた。
私は床から天井まである窓ガラス越しに瀬川空栖を見た。彼は車椅子に座り、取引先と話している。月光に照らされた横顔は今もなお美しいが、その瞳には冷たさと自嘲の色しか浮かんでいない。かつて馬術界のチャンピオンだった瀬川家の次男は、今や車椅子の身となり、家族からはゴミのように扱われている。
今度こそ、あなたを死なせたりしない。
「ええ、大丈夫」
私はグラスをウェイターに渡した。
「礼央、こちらへ来なさい。今すぐ」
瀬川家の女当主であり、実質的な権力者である瀬川紀子の声が、ラウンジから威厳たっぷりに響いた。私はイブニングドレスの裾を直し、ラウンジへと入った。
薄暗い照明の中、七十歳の老婆はソファに優雅に腰掛け、ワイングラスを揺らしていた。その瞳は剃刀のように鋭い。
「お座りなさい」
瀬川紀子は隣の席を叩いた。
「話があるわ」
私は三年前の無知な少女を演じながら腰を下ろした。だが、今度の私の心は氷のように冷え切っている。この老獪な魔女が何を言うか、手に取るように分かっていた。
「賢い娘は、自分の得になることが何かを分かっているものよ」
瀬川紀子の声は蜂蜜のように甘い。
「江はあなたのことをたいそう気に入っている。これは良い機会よ、お嬢さん」
良い機会? 前回、あなたの言うことを聞いたせいで、私は惨めに死んだのに。
「はい、奥様」
私は彼女の仮面を剥ぎ取りたい衝動を抑え、うつむいた。
「自分のためになることは、分かっております」
瀬川紀子は満足げに微笑んだ。
「結構だわ。今夜の後、江と過ごす時間を増やしてあげる。空栖のことだけど……」
彼女は言葉を切り、声に侮蔑をにじませた。
「あのお足で、この家を背負っていくのは無理でしょう。あなたは、欠けたものに尽くすには、あまりに惜しい方だわ」
私の拳が密かに握りしめられる。この悪辣な女に、真実の愛など永遠に分かりはしないだろう。
欠けたもの?本当に価値がないのが誰なのか、いずれ思い知らせてあげる。
「おっしゃる通りです」
私は顔を上げ、甘い笑みを浮かべた。
「私は、正しい選択をいたします」
ただ、あなたが期待する選択ではないだけ。
誕生日パーティーは最高潮に達した。
メインデッキでは、ゲストたちがシャンパンを掲げ、主役のスピーチを待っていた。スポットライトが、車椅子に居心地悪そうに座る空栖を照らし出す。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます……」
空栖の声がスピーカーを通して響き渡る。
私は後方で、その男を見ていた。三年前の今夜、彼は自分が死ぬほど絶望することになるとは思ってもいなかった。私の心臓は張り裂けそうだった。
今夜、私がすべてを変える。
「私がこの家に期待された息子でないことは分かっています。ですが、希望がある限り……」
空栖が言い終わる前に、私は人混みをかき分け始めた。
「すみません、ごめんなさい、通してください……」
私は当惑した表情でこちらを見つめ、囁き始める富裕層の人垣を押し分けた。
「礼央! 何をしているの!」
VIP席から瀬川紀子が立ち上がった。その顔は怒りに燃え、グラスを落としそうになっている。
私は振り返りも、立ち止まりもしなかった。皆の驚愕の視線を浴びながら最前列までたどり着き、バースデーステージに駆け上がった。
「礼央?」
空栖の瞳孔が鋭く収縮し、車椅子が本能的に後ずさる。
「君は……」
スポットライトが眩しく降り注ぐ。けれど、私の意識はかつてないほど澄み渡っていた。深く息を吸い込み、ありったけの力で叫んだ。
「私は、瀬川空栖と結婚します!」
死のような静寂。
時が止まったかのような、完全な沈黙。
自分の心臓の鼓動が聞こえる。針のように突き刺さる、驚愕の視線を感じる。でも、どうでもよかった。
「愛しているからです!」
私の声は全体に轟いた。
「彼を、彼だけを愛しているからです!」
群衆が爆発した。
「なんてこと!」
「今、彼女なんて言った?」
「正気なの?」
「あの足の悪い男と? 本気で?」
瀬川紀子のグラスが砕け散る音が聞こえた。跡継ぎである、あの優しげで陰湿な男――瀬川江の顔が、瞬時に歪むのが見えた。VIP席の隅では、記者たちがカメラを取り出している。
けれど、私の意識はすべて空栖に向けられていた。
彼の顔は死人のように青ざめ、車椅子の肘掛けを握る手は、指の関節が白くなるほど力が入っていた。
「綾乃さん、君は正気じゃない」
私は彼の瞳を覗き込んだ――驚き、怒り、屈辱、そして深い不信。だが、その一番奥に、一瞬の……希望の光を見た。
それで十分だった。
「私はかつてないほど正気よ」
私は屈み込み、彼の視線をまっすぐに受け止めながら囁いた。
「空栖、私にチャンスをちょうだい。本当の愛が何か、あなたに見せてあげる」
空栖の呼吸が速まる。何かを言いたげだったが、言葉が喉に詰まっている。信じたいという痛切な願いと、希望を抱くことへの恐怖。彼の内面の葛藤が伝わってきた。
「君は自分が何を言っているのか分かっていない」
彼の声はかろうじて聞き取れるほどの囁きだった。
「俺は……何者でもない。壊れているんだ」
「あなたは、私のすべてよ」
瀬川紀子がステージに駆け上がってきた。
「もうやめなさい! 礼央、今すぐ降りなさい! 見っともない!」
私はゆっくりと体を起こし、かつて私を絶望に追いやった女と向き合った。三年間、憎み続けた相手。今、私の唇に冷たい笑みが浮かぶ。
「いいえ、瀬川奥様。今度の私は、誰の操り人形にもなりません」
会場は囁き声で満ち、携帯のカメラのフラッシュが焚かれる。明日の見出しは、もう決まったようなものだ。
ゲームは、再び始まった。
今度こそ、私は私のやり方で愛し、戦い、そして守り抜く。
