第3章
綾乃礼央視点
あの夜を境に、すべてが変わると思っていた。
でも、違った。
翌朝、屋敷に戻ると、執事から空栖は誰にも会いたくないと告げられた。三日目も、同じ。四日目も、変わらず。
何が起こったのか、分からなかった。あのバスルームで泣いていた男は、私が傷にキスするのを許してくれたあの人は、どこへ行ってしまったの? 代わりにいたのは、もっと冷たくて、もっとよそよそしい誰かだった。
五日目になって、ようやく私は理解した。
午後の陽光がブラインドの隙間から空栖の寝室に差し込み、床に影を落としていた。窓を乗り越えて部屋に入った私は、血が沸騰するような光景を目にした。
金髪の女が、ナース服姿で空栖のベッドの傍らに座っていた――けれどその制服は第二の皮膚のようにぴっちりとしていて、Vネックははち切れんばかりだった。彼女は空栖に水を飲ませていたが、その仕草はいやらしいほどなまめかしい。
「瀬川さん、今日のご気分はいかがですか?」
女は甘ったるい声で言い、わざとらしく彼の胸を撫でた。
「何か、特別にお世話することはありますか?」
空栖はヘッドボードに背を預け、冷たい目をしながらも彼女を拒絶しない。
「別に。千野愛」
千野愛。その名前を、私は記憶に刻み込んだ。
「本当ですか?」
千野愛の手が彼の胸を這う。
「私はプロですから――すべてお任せください」
拳がみしりと音を立てるほど、強く握りしめた。あの女、あからさまに彼を誘惑している!しかも――空栖はそれを許している!
「もしかして……」
千野愛の声がさらに色っぽくなる。
「お着替えのお手伝いが必要かしら? 私、手先はとても器用なんですのよ」
その瞬間、空栖の視線が窓へと流れ、私を捉えた。一瞬、視線が交錯する――彼の瞳に何かが閃くのが見えた。罪悪感? それとも、反抗心?
そして彼は、私の頭を沸騰させるようなことをした――千野愛に微笑みかけたのだ。
「ああ、千野愛」
彼の声は穏やかだった。
「頼むよ」
私は、千野愛が空栖のシャツのボタンを外し始めるのを見ていた。彼女の手はわざとらしく彼の胸をさまよい、空栖はそれを許すどころか、協力さえしていた。
もう、たくさんだ。
私は窓を押し開け、部屋に足を踏み入れた。
「その必要はないわ」
私の声は氷のように冷たかった。
「あなたはクビよ」
千野愛は飛び上がり、顔を青ざめさせた。
「だ、誰……? どうやってここに?」
「彼の婚約者よ」
私は彼女の前に立ち、見下ろす。
「今すぐ出て行って」
「瀬川さん……」
千野愛が哀れっぽく空栖にすがる。
「この方、何を……?」
空栖の表情はまるで他人を見るように無感動だった。
「礼央、君は歓迎しない。千野愛は俺の専属看護師だ」
「専属看護師?」
私は冷たく笑った。
「専属の娼婦の間違いでしょう」
千野愛の顔が真っ赤に染まる。
「なんてことを言うんですか! 私はちゃんとした看護学校を卒業してるんですよ!」
「患者を誘惑する方法も教えてくれたのかしら?」
私は彼女の制服に目をやった。
「それとも、学校の制服はみんな、そんなにきついの?」
「もうやめろ」
空栖が冷たく言った。
「礼央、出て行ってくれ」
私は彼を見た。怒りと痛みが心の中で混じり合う。
「何のつもり、空栖?」
「ゲームじゃない」
彼の瞳に温かみはない。
「ただ、俺たちの間には何もないと、君に分からせたいだけだ」
千野愛が彼の隣で勝ち誇ったように笑う。
「その通りですわ。あなたみたいな方が、瀬川さんに相応しいわけがありません」
私は彼女に視線を向けた。その視線があまりに冷たかったのか、彼女はすぐに口をつぐんだ。それから空栖のもとへ歩み寄り、低い声で告げた。
「いいわ、ゲームをしたいのね? やってあげる。でも覚えておきなさい、瀬川空栖――私に、限度はないわ」
私は背を向けた。窓からではなく――まっすぐ、ドアに向かって。
「千野愛さん」
私はあの女を振り返った。
「荷物をまとめなさい。今日が最終出勤日よ」
「あなたにそんな権限は……」
千野愛が抗議を始めた。
「あるわ」
私はスマートフォンを取り出し、電話をかける。
「もしもし、看護師の職業倫理違反を通報したいのですが……」
千野愛の顔が瞬く間に真っ白になった。通報されれば、自分の看護師免許が終わることを悟ったのだろう。
「わ、私、自分で辞めます」
彼女は慌てて荷物をまとめ、逃げるように去っていった。
部屋には、空栖と私だけが残された。
「満足か?」
空栖が冷たく尋ねた。
「全然」
私は彼の元へ歩み寄る。
「何の芝居だったのか、教えてちょうだい」
「芝居じゃない。君に諦めてほしいだけだ」
「どうして?」
私は彼の顎を掴み、無理やり私の方を向かせた。
「怖いの?」
「怖くなんかない」
彼は振り払おうとしたが、私は力を緩めなかった。
「ただ、君を巻き込みたくないだけだ」
「私を巻き込む? それとも、新しい看護師が忘れられないのかしら?」
空栖の目に怒りが閃いた。
「馬鹿なことを言うな!」
「なら、証明して」
私は彼を解放し、声のトーンを危険なものに変えた。
「わざとじゃなかったと、証明して見せなさい」
「証明する必要なんかない」
空栖が車椅子を動かそうとする――私はそれを掴んだ。
「だめ」
私の声は柔らかいが、脅威を孕んでいた。
「私に出て行ってほしい?ありえない」
空栖の顔が険しくなる。
「出て行け」
「いやよ」
私は立ち上がり、テーブルからベルトを手に取った――彼のベルトを。
「話があるわ」
「話すことなどない」
空栖は背を向けようとしたが、私はすでに彼の背後にいた。
「たくさんあるわ」
私は突然、彼の胸に背後からベルトを回し、車椅子に縛り付けた。
「例えば、どうしてあんな看護師を雇ったのか、とかね」
「礼央!」
空栖はもがいたが、ベルトはきつく締まっていた。
「気でも狂ったのか! 離せ!」
「質問に答えなさい」
私は彼の正面に回り込み、見下ろす。
「どうして?」
「答える必要はない!」
空栖の瞳が怒りで燃えていた。
「離せ!」
「いや」
私は彼の膝の上に座り、その体が強張るのを感じた。
「答えないなら、離さない」
「礼央……」
彼の声が震え始めた――怒りからではなく、何か別のものから。
「やめろ……」
「やめろって、何を?」
私の手が彼の頬を撫でた。
「私に触るな、ってこと? でも、あの女には触らせてたじゃない」
「あれは違う……」
「どう違うの?」
私はさらに顔を近づけ、彼の息を感じる。
「どう違うのか、教えて」
空栖は何か苦痛に耐えるかのように、目を閉じた。
「礼央、頼むから……離してくれ……」
「本当のことを言ったら、離してあげる」
私の唇が、彼の唇に触れそうになる。
「どうしてあの看護師を雇ったの?」
「それは……」
彼の声はほとんど聞き取れないほど小さかった。
「君に、俺を嫌いになってほしかったからだ」
「なぜ?」
「そうすれば、君は俺から離れていくだろう」
彼は目を開け、涙が溜まっていた。
「君はもっといい奴を見つけるべきだ。俺みたいなクズじゃなくて」
心臓が切り裂かれるような痛みを感じたが、私は彼を解放しなかった。代わりに、彼にキスをした。
そのキスは激しく、怒りと所有欲に満ちていた。彼に分からせなければならなかった――彼は私のもの、私だけのものなのだと。
空栖は最初こそ抵抗したが、次第に応えてきた。彼の体が変化していくのが分かる。肉体的な反応が、彼の理性を裏切っていた。
「礼央……」
彼は私の唇に、呻くように言った。
「これは、間違ってる……」
「何が正しいの?」
私は彼の下唇を噛んだ。
「他の女に体を触らせることが?」
「違う……そうじゃなくて……」
彼の声は途切れ途切れだった。
「俺たちが……こうなるのは……間違ってる……」
「何が正しいかなんて、どうでもいいわ」
私の手は彼のベルトへと伸びていた。
「私が気にするのは、あなたが私のものだということだけ」
その時、突然書斎のドアが開いた。
