第3章
「えっ?」
桐生初夏は聞き取れずにもう一度尋ねたが、萌々はそれきり頑なに口を閉ざしてしまった。
初夏は胸を痛めながら、そっとため息をつく。
萌々は天使のように愛らしく、透き通るような美しい顔立ちをしているというのに、その瞳は焦点が合っておらず、表情には虚無感と無頓着さが張り付いている。
まるで完璧に作られた、魂を持たないフランス人形のようだ。
もし、あの火事が起きていなければ……。
何年も前の苦しい記憶が、ふいに脳裏をよぎる。
てっきり一人しか身ごもっていないと思っていたのに、まさかお腹の中に男女の双子までいたとは思いもしなかった。
ただ、妹の方は生まれつき重度の自閉症を患っていた。回復に向かうには、どうしても肉親の温もりが必要だと医者に告げられている。
それも、彼女が再びH市へ戻ることを決意した理由の一つだった。
空港を出ると、初夏は迎えに来ていた車に二人の子供を乗せた。
「プリン、萌々。先にホテルへ行っててね。ママは少し用事を済ませてから、すぐに後を追うから」
プリンは無言のままクールに『OK』のサインを作ってみせた。
走り去る車を見送ってから、初夏は手を挙げてタクシーを拾う。
見慣れた景色が次々と車窓を流れていく。彼女は複雑な思いを抱きながら、そっと自分の胸元に手を当てた。
そこには、朱雀の意匠が彫り込まれた男性用の指輪が下げられている。
あの年、見知らぬ男と一夜限りの関係を持った。相手は有益な情報を何一つ残さず、ただこの指輪だけを置いていったのだ。
鑑定に出したところ、金を出しても買えないほどの代物だということは分かったが、残念ながら出所までは突き止められなかった。
だが一つだけ確かなのは、相手の素性が決して桐生麻衣の言っていたような物乞いなどではないということだ。
帰国前、J市にこの手の品に精通した骨董の大家がいると耳にした。もしかすると、指輪の由来を知っているかもしれない。
その人物とは、今日会う約束を取り付けていた。
指輪の表面を指先でなぞりながら、どうか持ち主が見つかりますようにと、彼女は心の中で静かに祈った。
黒塗りのマイバッハの車内。
神崎司は軽く目を閉じながらも、脳裏ではあの幼い顔立ちを思い返していた。
運転手がルームミラーを何度もちらちらと確認し、ためらいがちに口を開く。
「神崎社長、後ろからタクシーがずっとついてきております」
これから向かう先はかなり辺鄙な場所だというのに、そのタクシーはしつこく尾行してきている。目的は火を見るより明らかだった。
司はまつ毛一本動かすことなく、薄い唇を開いて冷淡に言い放った。
「撒け」
「かしこまりました」
車は速度を上げ、あっという間にタクシーを大きく引き離した。
やがて車は、ひっそりとした骨董屋の前に停まった。外側は鬱蒼とした木々に覆い隠されており、一見しただけでは中の様子がまったく窺えない。
司は素早い身のこなしで店内へと足を踏み入れた。
紫檀の机の奥に座る老店主が、鼻梁に乗った鼈甲の眼鏡を押し上げる。
「神崎さん、こちらが最近集めた朱雀の紋様が入った親指用の指輪です。お探しの品があるかどうか、見てやってください」
司はこれまで何度も開けてきた錦箱を開き、中身を一つ一つ目で追っていった。
最後の一個を確認し終えると、彼の瞳にふっと寂寥の色がよぎる。
「ないな」
「本当に……紛失されたので間違いありませんか? この五年間、朱雀の紋様を持つ親指用の指輪はほぼすべて掻き集めましたが、あなたが求める品は一つとして見つかりませんでしたぞ」
老店主が重々しい面持ちで言った。
司はそれ以上何も語らなかったが、その端正な顔立ちにはいくばくかの陰りが落ちていた。
あの指輪は祖母の遺品であり、彼にとって並々ならぬ意味を持つものだった。
五年前、彼は何者かの罠にはまり、図らずも一人の女と一夜を共にしてしまった。
その事後、彼は部屋に指輪を置き忘れてしまったのだ。
のちにその女を捜し出すことには成功したが、彼女は指輪を失くしたと言い張った……。
瞳の奥に暗い光を宿し、彼は声を潜めた。
「引き続き捜索を頼む。何か情報が入ったら、すぐに知らせてくれ」
そう言い残して扉を開け、入り口に垂れ下がる蔦を掻き分けようとした瞬間――外から伸びてきた別の手と、ばったりぶつかった。
その女の肌は透き通るように白く、瑞々しい緑の植物を背景にして、塵一つない清らかな美しさを際立たせていた。
空港で見かけた時よりもさらにハッとさせられる。彼の心臓は理由もなく大きく跳ね、どこか懐かしい感覚がどっと押し寄せてきた。
「あなた……?」
初夏は司の姿を認め、なんという偶然だろうと驚いた。だが、何気なく視線を落とした先――彼の指に嵌められている指輪を目にした瞬間、心臓が大きくドクンと鳴った。
「その指輪の模様……朱雀、ですか?」
