第4章
彼女は焦りのあまり、無意識に彼の手首を掴んでいた。
「それ、どこで買ったんですか? 同じシリーズで親指用の指輪がもう一つ……」
神崎司は少し視線を上げ、道の向こう側に停まっているタクシーを見た。先ほどから彼を尾行していた車両だ。
彼の顔色が一瞬にして険しくなった。
このH市には彼のベッドに潜り込もうとする女が星の数ほどおり、名門への玉の輿を狙ってあの手この手を使ってくる。
この女は、空港で子供をダシにして近づいてきたばかりか、ここまで尾行してくるという卑劣な手段に出たのだ。
おまけに、馴れ馴れしく触れてくるとは図々しいにも程がある。
先ほど感じた一瞬の目を奪われるような感覚は完全に消え失せた。彼は彼女の手を冷たく振り払い、陰鬱な顔で吐き捨てた。
「違う」
「警告しておく。俺に近づくな」
そう言い残すと、彼は桐生初夏を二度と見ることなく、身を翻して立ち去った。
桐生初夏は呆気にとられた。
「……?」
彼の背の高い後ろ姿をしばらく見つめていた桐生初夏は、ふと思い出した。あの男、たしか創世グループの社長、神崎司だ。
若くして成功を収めたビジネスの天才であり、無数の女性たちが憧れる理想の恋人。
どうりで見覚えがあるわけだ。
桐生初夏はハッとして、先ほどの彼の態度の意味を理解した。
彼女は呆れて独りごちた。
「女がみんな、あんたに嫁ぎたがってるわけじゃないっての!」
気を取り直し、ドアを押して中に入ろうとしたその時、不意にスマートフォンが鳴り出した。
着信画面の『プリン』という文字を見て、彼女は途端に緊張を走らせた。空港での騒動の二の舞になるのではないかと危惧したのだ。
『ママ、どうしてかわからないけど、ホテルが急に僕たちの部屋をキャンセルしたんだ。それに妹の発作が起きて……』
次の瞬間、電話の向こうから物が激しく割れる音と、従業員の悲鳴が聞こえてきた。
桐生初夏は、苦労してようやくアポを取った職人のことなど構っていられず、大急ぎでホテルへと引き返した。
彼女が戻ったときには、プリンはすでに落ち着き払った顔で支配人と交渉していた。
一方、萌々は傍らのソファに座り、テーブルの上の金魚鉢をじっと見つめ、桐生初夏が来てもまったく反応を示さなかった。
プリンは静かな表情で彼女を見て言った。
「ママ、もう大丈夫だよ。システムのバグで予約した部屋番号が間違って表示されてたから、僕が直しておいた」
支配人は感嘆の表情を浮かべていた。
「お客様、お子様は本当に素晴らしいですね。こんなにお小さいのに、プログラミング技術に精通しておられるとは!」
桐生初夏は萌々を抱き寄せながら、プリンの頭をくしゃくしゃと撫でた。心の中で密かに息子を誇らしく思った。
しかし、視線を萌々に移すと、どうしても胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
発作の頻度が増し、感情のコントロールがますます難しくなっている。医者の言う通り、一刻も早く実の父親を見つけ出さなければ……。
部屋に戻り、二人の子供の服を片付けた後、桐生初夏はミルクを二杯温め、隣の寝室へと向かった。
寝室では、子供たちがそれぞれの作業に没頭していた。
プリンはヘッドセットをつけ、大人びた冷静な声で攻防の指揮を執っていた。
「アタッカー続け、左を警戒しろ」
自作のボイスチェンジャーが彼の声を大人の男のものに変換している。彼に指揮されている百人以上のプレイヤーたちは、自分たちのボスがわずか四歳の男の子だとは誰も知らない。
桐生初夏はプリンが何をしているのかよくわからなかったが、ミルクを置いて邪魔をしないようにした。
そっと、お絵かきをしている萌々のそばに移動したが、その表情がふと固まった。
画用紙に生き生きと描かれている男は、まさに空港で出くわした神崎司だったのだ。
萌々が外の世界に興味を示したのはこれが初めてだった。桐生初夏は慌てて尋ねた。
「萌々、どうしてこのおじさんを描いたの? ママに教えてくれる?」
しかし、萌々は相変わらず自分の世界に入り込んで絵を描き続け、何の反応も返さなかった。
桐生初夏は少し落胆したが、怒りはしなかった。
萌々の病気には極めて強い忍耐が必要だ。彼女はただ、医者の言葉は正しかったのだと思った。萌々がこれほど大人の男性に興味を示すのは、きっとパパに会いたいからなのだ。
あの夜の男を、一刻も早く見つけ出さなければ。
その時、寝室に置いてあるパソコンから、新着ミッションの通知音が鳴った。
桐生初夏は瞬時に顔の表情を引き締め、早足でパソコンの前に戻った。
主の気配を察知したかのように、画面にはダークでミステリアスなデザインのサイトがポップアップした。
ダークウェブ。
アカウント名——HN。
ミッションリストには、特別に光の枠で囲まれた新しい依頼が表示されていた。それは最重要案件を意味する。
クライアント——シグナルグループ。
祖父である手塚宗一郎の会社だ。
現在、シグナルグループは人工知能の開発に注力しているが、プログラム上で巨大な技術的壁にぶつかっており、国内でそれを解決できる者は未だにいない。
これが、桐生初夏が帰国したもう一つの理由だった。
彼女は画面に表示された『ミッション受注完了』の文字を見つめながら、瞳に興奮と不安を入り混じらせ、そっと自分の頬に触れた。
あの火事の中、忠実な老使用人の助けで辛くも逃げ延びたが、この顔はすっかり変わってしまった。
お祖父様は、何年も前に「死んだ」はずの孫娘の私を、かつて一番可愛がっていた私のことを、まだ覚えていてくれるだろうか。
時を同じくして、ホテルの大きな窓際で。
神崎司のイヤホンから、アシスタントの声が聞こえてきた。
『社長、HNが現れました。現在海城にいます! すでに最先端のAIシステムを開発したとの情報があり、我々も直ちに……』
「どんな代償を払ってでもHNを見つけ出せ。他社に出し抜かれる前に必ずだ」
神崎司は冷静な面持ちで指示を下した。
通話を切り、部屋の外へ視線を向けた途端、彼の顔色が変わった。
「神崎隼人?」
くそっ、また逃げたか!
