第7章
彼女はそのまま背もたれに崩れ落ちた。
「ああ……朱雀じゃない。鳳凰だ……!」
鳳凰と朱雀はどこか似ている。けれど鳳凰のほうが尾羽が何本も多く、ひときわ気高く見える。
指輪の意匠が一致しない。桐生初夏は落胆しつつも、胸の奥ではどこか安堵していた。
萌々の症状を和らげるには、父の愛情に包まれることが必要だ。相手は少なくとも、前向きで陽だまりみたいな男――のはず。
よかった。さっきの、金があるだけで人を見下す氷みたいな男じゃなくて。息子との関係だって、目も当てられないほど最悪だったし。
そう思いながら、桐生初夏は古美術の名人に電話をかけ、改めて面会の約束を取り直そうとした。
だが出たのは弟子だった。名人は海外の鑑定会に出ていて、帰国は一か月後になるという。
桐生初夏は、いったん諦めるしかなかった。
一方その頃。
神崎司は神崎隼人を連れて部屋へ戻ると、ソファに脚を組んで座り、冷えた目で小さな身体を見据えた。
「神崎隼人。何度目だ。誰が勝手に外出していいと言った」
細長い瞳に、刃のような気配が宿る。
神崎隼人は横に垂らした小さな手をぎゅっと握りしめ、口だけは強情に言い返した。
「僕、囚人じゃない。行きたいところに行っちゃダメなの? 別に悪さしてない!」
「言ったはずだ。――不許可だ」
神崎司は声を落とし、一語ずつ冷たく刻む。
「それ、軟禁じゃん! なんでそんなことするの!」
神崎隼人は小さな顔をこわばらせ、父親に食ってかかる。
「外に出れば身元が露見する。どれだけの人間がお前を狙っているか分かっているのか。今日が悪人だったら、お前はもう帰ってこられなかった」
視線は森の底みたいに冷たく、顔には霜が張ったようだった。
「じゃあ帰らない!」
どこから湧いたのか分からない勢いで声を張り上げ、くるりと背を向けて走り出そうとする。
その瞬間、ふわりと腕が伸びてきて、神崎隼人をやさしく抱きとめた。
甘い声が耳に落ちる。
「もう、隼人。いい子だから、爹地と喧嘩しないの。爹地はあなたのためよ。隼人は大きい子なんだから、言うこと聞こうね」
「次に出かけたいときは妈咪に言って。妈咪が連れてってあげる。爹地に迷惑かけないようにね、いい?」
神崎隼人はその顔を見た途端、胸の奥から嫌悪がこみ上げ、乱暴に突き飛ばした。
「お前、僕の妈咪じゃない。どけ!」
桐生麻衣は涙を拭い、哀れっぽく声を震わせる。
「私があなたを一日も育てられなかったこと、あなたが嫌がるのも分かる。でも……私は本当に、あなたの実の母親なの」
「私は早産で、命がけであなたを産んだのよ。どれだけ苦しんだか……あなたは――」
「もういい! うるさい。ほんと、うざい」
神崎隼人は眉をひそめ、ぷいっと背を向けて出ていった。
この女は「実の母親」を口にしてばかりなのに、愛なんて欠片も感じない。
それなら、さっき会った――たった一度の女のほうがずっといい。あの人のそばは、なぜか落ち着いた。
次の機会があれば、また会いに行こう。
けれど、彼女には子どもが二人いた。
そう思っただけで、胸の奥がちくりと痛んだ。
桐生麻衣は追いかけず、涙目のまま神崎司の腕に縋りつく。
「司……見たでしょう。私はこの数年、あの子のためにどれだけ尽くしてきたか。それでも、受け入れてくれない」
「きっと心のどこかで、あなたと結婚した女だけが母と呼ばれる資格があるって思ってるのよ。私は名分もないし、相応しくないんだって……」
「もう四歳なのに性格も荒くて、この先ちゃんと躾けられるのか……いっそ――」
言いながら、彼女は「うっかり」スカートを少し持ち上げた。
太腿には、桐生初夏のものとまったく同じ薔薇の痣。
それを武器に、神崎家が出した捜索の告知に名乗り出たのだ。
子どもと痣さえあれば、一気に成り上がれる――そう踏んでいた。
だが四年経っても、神崎司は彼女に身分を与えない。態度も最初から最後まで冷たいまま。
外で「神崎隼人の母」と名乗ることすら許さない。
そのせいであのクソガキは父親に反抗し続ける。腹立たしい。
「それはお前が心配することじゃない。俺が手配する」
神崎司は立ち上がり、淡々と言った。
隼人の反抗で苛立っているところへ、桐生麻衣の泣き言。うんざりだ。一秒だって長居したくない。
主寝室の扉が閉まるのを見届けた瞬間、桐生麻衣の目に怨毒が差した。
身分は認められていない。だが神崎司の周りに、他の女は現れない。
「実母」という札さえ握っていれば、機会はいくらでもある。
九十九歩まで来た。あと一歩で、神崎家に嫁げないはずがない。
