第9章
「あなた方のシステムが抱えている最大の欠陥は、コア技術を輸入に頼り切っている点です。外部のバージョンに上書きするだけで、自前で開発できていない」
「それと、ユーザーの安全性が甘い。情報漏えいのリスクが高すぎます」
桐生初夏はそう言うなり、卓上のノートパソコンをひょいと引き寄せた。ためらいもなく指を走らせ、ぱぱっとロックを解除してみせる。
続けて、既存のコードに短い文字列を打ち足し、エンターキーを叩いた。
「ioプロトコルで暗号化してみて。ユーザー情報の保護ができます」
コードが走り出した瞬間、技術部の統括は思わず口元を押さえた。
自分の暗号化端末が3秒もかからず破られた時点で十分に衝撃だったのに、数か月も議論して煮詰まっていた難題が、たった一串のコードで解決?
女とか、そういう次元の話じゃない。
人間か?
そもそも生物なのか?
「……失礼しました。先ほどは私の無礼でした」手塚直哉は眉をほどき、すぐに手を差し出す。「HNさん、契約していただけませんか。シグナルグループの上級開発者として迎えたい」
桐生初夏は動じることなく、薄く笑った。
「申し訳ありません。お断りします」
手塚直哉の表情が固まる。
「条件があるなら言ってください。いくらでも。シグナルが出せる限り出します!」
「御社のコア技術も、ハードも、現状では満足できません」桐生初夏は資料をすっと押し出し、指を二本立てた。「でも、私には最先端のシステムがある。それを使えば、御社のAIは他社をリードできます」
「利益配分は2割。著作権は御社。開発は私が直接担当。どうです?」
資料に目を落とした一同は、顔を見合わせる。手塚直哉の目にも、期待と疑念がない交ぜになった色が浮かんだ。
条件が良すぎる。コードにも穴は見当たらない。だが――。
「HNさん……なぜ、うちなんです」手塚直哉は緊張した面持ちで眉を寄せる。「あなたの実力なら、他社がもっと高額を出すはずだ。それなのに、なぜ2割だけで……」
「署名権はいりません。その分、少し手放すだけです」桐生初夏は淡々と答えた。「2割は、顔合わせの手土産だと思ってください」
手塚家のために、もう少しだけ何かを返したい。
桐生初夏にとって金は二の次だった。祖父母は、あまりにも彼女に優しかったから。
あの火事のあと、桐生麻衣は吹聴して回った。
桐生初夏は私生活が乱れて父親不明の子を産んだ、挙げ句、家族への報復で火を放ったのだと。
逃げ延びたあと、祖父母に頼ることだってできた。
けれど当時の彼女はネット中から叩かれ、会社の商品は不買運動にさらされていた。年老いた二人まで巻き込みたくなくて、海外へ身を引いた。
――今度こそ。
涅槃して戻ったのだ。もう、縮こまって逃げるつもりはない。
契約を交わしたあとも、手塚直哉は企画書を何度も読み返し、感嘆の息を漏らした。
「すごい……! HNさん、国内でも滅多にいない逸材です。あなたをシグナルに迎えられるなんて、光栄だ」
プリンは気だるげにゲームをいじっていたが、声を聞いてちらりと目を上げる。
「それくらい普通。うちのママ、sraのAI分野の天才開発者だし」
桐生初夏は笑って、ちいさな頭をくしゃりと撫でた。視線がぶつかる。心の中でだけ言う。――あなたもね。
行き詰まったとき、助けられるのはプリンのほうだった。今回のシステムだって彼の手が入っている。暗号化の発想も、彼が持ち込んだ新しい視点だった。
手塚直哉は隠しもせずに感心し、慌てて言った。
「先ほどの無礼のお詫びに、食事でも。お子さんもご一緒にいかがですか」
「ありがとうございます。お気持ちだけいただきます」桐生初夏は丁寧に首を振る。「その代わり、ひとつお願いが」
「何でも」
「来週、手塚宗一郎の寿宴があると伺いました。以前からご活躍を耳にしていて、とても尊敬しています。もし可能なら、招待していただけませんか」
寿宴はもともと賓客を広く招く席だ。しかも彼女は、今やシグナルの要になる人物。
手塚直哉は即答した。
「もちろん。問題ありません」
桐生初夏は上品に笑みを保ったまま、胸の内では静かに喜んだ。
――ようやく、祖父母に会える。
当日は客も多い。公の場でなら、どれほど嫌われていようと、面と向かって追い出すことはできない。
会談が終わり、桐生初夏は手塚直哉と話しながら廊下を歩く。
プリンはスマホをしまい、妹の肩を軽くつついた。
「萌々、帰るよ」
萌々は書架の前に膝をついたまま、ぴくりとも動かない。
視線は一冊の雑誌に釘付けで、抱え込むようにして夢中になっている。
プリンも覗き込んだ。
――見覚えのある写真。
しばらくして、はっとする。
昨夜の、あの男だ。
