第一章 汚れた身代わり
手術台は冷たかった。
温音は天井を見上げたまま、身動きひとつしなかった。
「麻酔は不要だ」
スピーカーから流れてくる颯真の声は、業務連絡でも伝えるかのような、抑揚のない声だった。「これは彼女への罰だ」
医師は無言のまま、メスを手に取った。
これで三度目だった。
最初は初夜の翌朝。颯真がシーツをめくり、一瞥して、また戻した。何も言わなかった。あの沈黙は、どんな言葉よりも重かった。
少し後、颯真は朝食の皿の隣にクリニックの名刺を置いた。静かな声で言った。「何をすべきか、わかるはずだ」
それ以来、手術台は彼の刑具になった。
口答えをした。廊下で泣いているところを助手に見られた。宴席で、彼のそばに立つのが遅れた——理由はいくらでも出てきた。「恥をかかせた」「恥知らず」「自分が何者かを忘れるな」。毎回同じだった。同じ冷たい台、同じ無影灯、同じ刃。
一度耐えれば、信じてもらえると思っていた。
二度目には、もうそんなことを考えなくなっていた。
それでも、記録するのをやめなかった。
黒崎家の書斎の片隅に、建築スケッチを装ったスケッチブックを置いていた。中に、折りたたんだ紙が何枚か挟んであった。手術の日付。彼が発した言葉。その場にいた人間の名前。復讐のためではなかった——当時はそこまで考えていなかった。ただ、記録しなければ、これらのことが最初から存在しなかったかのように消えてしまう気がした。
音もなく消えてほしくなかった。
朝霞家が温音を引き取ったのは、条件つきだった。私生児の娘が黒崎家に嫁げたこと自体、彼女が歩みうる最果てだった。それ以上を望んだことも、望む資格があると思ったこともなかった。
刃が皮膚に触れた瞬間、唇の内側を噛み破った。手術台の縁を死ぬ気で掴み、指の関節が白くなった。涙が目尻から流れ、こめかみを伝って髪の中に染み込んでいった。声は出なかった。
家に戻ったのは、夕方を過ぎた頃だった。
ベッドに倒れ込んだ瞬間、体の芯から冷気が滲み出してくるようだった。下腹部を引き裂くような痛みは横になっても引かず、目を閉じると、あの白く冷たい天井が瞼の裏に貼りついていた。
このまま眠れたらいい。
スマートフォンが振動した。
画面には「お母さん」と表示されていた。温音はわずかに躊躇してから、通話ボタンを押した。
「澄花が帰ってきた。今すぐ邸に来なさい」
川里枝の声は命令だった。
「お母さん、今日は体の具合が——」
「具合が悪くても来るの」言葉を遮られた。「澄花の帰国歓迎の宴に、妹のあなたが顔も見せないなんて、朝霞家はどう見られると思ってるの?」
通話が切れた。
スマートフォンを握ったまま、温音はしばらく動かなかった。
行かなければならないことはわかっていた。三年で、それだけは誰より深く刻み込まれていた。
それでも体はすぐに動かなかった。再び目を閉じ、暗闇の中にもう少しだけとどまった——迷っていたわけではない。ただ、痛みを奥深くへ押し込んでいた。外に出たあとには感じられないくらい、深いところへ。
数分後、起き上がって着替えを始めた。
朝霞家の邸宅は、横浜山手の丘の上に建つ西洋式の古い屋敷だった。
タクシーを降りたとき、建物のすべての窓から光が溢れていた。玄関前に並ぶ高級車が、今夜の格を無言で語っていた。
扉を押し開けると、笑い声と話し声が一斉に押し寄せてきた。
客間の中央に、朝霞澄花が座っていた。
銀糸を織り込んだオートクチュールのドレスをまとい、ソファに端座した姿は、丁寧に額装された一枚の絵のようだった。周囲の親族や招待客が競うように歩み寄っていた。
「留学、本当に無駄じゃなかったわね」「まるで別人みたい」「どんどん洗練されていく」
澄花は優雅に微笑み、ゆっくりと首を傾けた。細やかな所作のひとつひとつが、長い歳月をかけて磨き上げられたように見えた。
温音は壁際に立ち、それを眺めていた。
下腹部の痛みが波のように押し寄せてくる。壁を支えにしなければ、まともに立っていられなかった。
澄花が視線を上げた。
二人の目が、一瞬だけ交わった。
澄花が立ち上がると、周囲の視線が自然についていった。
「温音、来てたのね」
声は柔らかく、ちょうどいい驚きの色が乗っていた。部屋中に聞かせるための声だった。澄花は温音の前に歩み寄り、わずかに首をかしげながら、顔から体へと視線をゆっくり流した。
「顔色、ひどいわね」
言葉には三分の憐れみと、七分の、自分の憐れみに酔う気配があった。
「颯真さんも心配するんじゃないかしら。奥さんがこんな顔で出席したら、誰だって気になるでしょう——ああ、でも最近あまり会えてないって聞いたけど、大丈夫?」
周囲で低く相槌を打つ声、意味ありげに交わされる視線。
澄花は止まらなかった。傍らの客に向き直り、小さく笑った。
「温音って昔からそうなの。張り詰めすぎて、何でも顔に出てしまう。なんというか——自分を極限まで追い詰めるのが得意なのよね」
言いながらも、その表情はどこまでも柔らかかった。妹を本気で案じる姉のように。
温音は動かなかった。
笑い声が四方から押し寄せてきた。
その場に立ったまま、澄花の言葉を一語一語聞き届け、それから頭の中のどこかへ押し込んだ。深く。蓋をして。
忍耐ではなかった。記憶していた。
すぐには邸に戻らなかった。
庭の端に長く立ち、晩餐が始まってから、ようやく側門を通って中へ入った。
颯真はすでにその場にいた。
黒いスーツに、シャンパングラスを手にして、澄花と何か話していた。その横顔は、温音の知らない他人のように、柔らかかった。
数歩近づいた。
颯真が目を向けた。
一瞬だけ。
その眼差しにあったのは、嫌悪だった。隠しもしない、剥き出しの嫌悪だった。
「その格好で来たのか」
周囲に届く声量だった。「黒崎家の妻が、その様子で出席するつもりか?」
誰かが笑いを堪えた気配が、かすかに漏れた。
「失礼しました」
頭を下げて、その場を離れた。
テラスへ出たのは、逃げるためだった。
夜風が頬に冷たかった。横浜の夜景が遠くに広がっていた。温音は両手を手すりに乗せ、何も考えず、ただ立っていた。冷たい風が、顔の熱を少しずつ連れていくのを感じていた。
どれくらい経ったか。話し声が聞こえてきた。
反射的に振り返ろうとして、途中で止まった。
テラスの一角、アーチ型の柱の影の中に、颯真と澄花が立っていた。二人とも温音の存在に気づいていなかった。
「いつ彼女に話すつもり?」
澄花の声だった。
「家族統合の案件が終わってから」
颯真が答えた。低く、落ち着いた声だった。「それまでは使い道がある。片がついたら、すべて置いて出ていかせる」
「かわいそうに」澄花が小さく笑った。「本気であなたのことが好きなんでしょうね」
「だから気持ち悪い」
颯真の声に、感情の色はなかった。
「俺が欲しいのはお前だ、澄花。あいつは最初から、汚れた身代わりに過ぎない」
風が、止まったように感じた。
温音は柱に背を預け、動けなくなった。
汚れた身代わり。
その言葉が頭の中で静かに反響した。
胸は痛まなかった。ただ、静かだった。自分が余分な存在だということは、小さい頃からずっとわかっていた。颯真がそれを、ただ率直に口にしただけだった。
澄花の笑い声が、遠くから聞こえてきた。
テラスを後にした。誰にも声をかけず、邸を出た。
部屋に戻ってから、シャワーも浴びずにベッドの縁に腰を下ろし、壁をしばらく見つめていた。
涙が一筋、頬を伝った。
指の腹でそっと拭った。それだけだった。
引き出しの奥から、一枚の書類を取り出した。
離婚協議書。
颯真がかつて投げつけ、そのまま放置していったものだった。財産分割の欄は、空白のままだった。
その空白を見つめているうちに、別の夜が浮かんできた。雨の音。泥と水の匂い。そして、冷たい両手。
