第二章 決裂
七年前の雨の夜のことだった。
川沿いの道、濡れたアスファルトの上に人が倒れていた。温音は傘も差さずに駆け寄り、両膝を泥水に沈めた。少年の顔色は灰白で、唇が青みを帯びていた。救急車が来るまで、彼の手を握ったまま離れなかった。
あの雨の夜、少年の横顔を今も覚えている。
——今の颯真と、重なるだろうか。
重ならない。
どれだけ記憶を辿り直しても、重ならない。
あの夜の少年は、震えながら温音の手を握り返してきた。今の颯真が温音を見る目には、むき出しの嫌悪しかない。
温音はゆっくりと書類を机の上に置いた。
——もしかしたら、私は最初から人違いをしていたのかもしれない。
震えながら手を握り返してくれたあの少年が、自分が嫁ぐ相手に育っていくのだと思っていた。顔を見間違えたのではない。人の心を、見間違えた。
夜明け前、温音はパソコンの前に座った。
新しいファイルを開き、一行ずつ打ち込んでいった。財産分割の欄には何も記入しなかった。黒崎家の財産は、一円も要らない。邸宅も、口座も、宝石類も、何もいらない。
署名欄に、自分の名前を書いた。
プリンターが起動した。
用紙が出てくる音を聞きながら、温音は一度だけ目を閉じた。
夜明けの光がカーテンの隙間から差し込み始めた頃、川里枝はすでに邸の玄関口に立っていた。
昨夜温音が宴席を途中で退いたとき、川里枝はその背中を見ていた。あまりにも静かな背中だった。もう留まるつもりのない人間の静けさだと、直感的に思った。
ドアが開く。客間を一瞥し、視線が机の上の書類に落ちた。
手に取る。
一行読んで、顔色が変わった。
「何のつもり?」
川里枝は書類を机に叩きつけた。「財産放棄?頭がおかしいんじゃないの。黒崎家の投資がどうなるか、あなたわかってるの?あなたが勝手なことをしたら、朝霞は終わるのよ!」
温音は立ったまま、母を見た。
「お母さん」
声に揺れはなかった。
「私が黒崎家でこの三年間、どんな目に遭ってきたか、知ってるでしょう」
「そんなことは——」
「知ってる。ずっと知らないふりをしてただけ」
川里枝の言葉が途切れた。
「三年間、手術台に上がるたびに。お母さんから電話が来たことは一度もなかった」
「離婚は許さない」川里枝は声を荒らげた。「あなた一人のわがままで、この家を潰すつもり?朝霞の人間がどれだけ苦労して今の地位を守ってきたか、わかってるの!」
平手が飛んできた。
頬に鋭い衝撃。
温音はよろけ、川里枝を見つめた。
「お母さんが守りたいのは、この家の地位」
静かに言った。
「私じゃない。最初から、一度も私じゃなかった」
川里枝が何かを叫んでいた。言葉は耳に届いたが、温音の中には入ってこなかった。
そのとき、視界が白に呑まれた。
暗転ではなかった。色のない白が、ゆっくりと視野全体を覆っていった。
また来た。
温音は壁に手をついた。指先に壁の感触がある。足の裏の感覚もある。ただ、何も見えなかった。
「どうしたの」川里枝の声が遠くなった。「また具合が悪いふり?みっともない」
足音が遠ざかった。
温音はそのまま、壁に背をもたせかけてずるりと座り込んだ。
数分後、視界の輪郭が少しずつ戻ってきた。
スマートフォンを手に取り、颯真の番号に電話をかけた。
二度のコールでつながった。
「何」
寝起きではない。もう起きていた。
「離婚協議書に署名しました」温音は言った。「今日中に、確認してください」
沈黙。
「……何だと」
「財産は何も要りません。手続きが終わったら、邸を出ます」
また沈黙。それから、颯真が低く笑った。
「なるほど。そういう手を使うか」
「手じゃありません」
「欲しいものがあるなら直接言えばいい。こんな回りくどいやり方で、俺は揺るがない」
温音は黙っていた。
「泣きながら戻ってくれと頼むなら、まだわかりやすい。あなたは——」
「颯真さん」
言葉を遮った。
「本気です」
電話を切った。左手を見た。婚約指輪と結婚指輪が、光を受けていた。
左手から外した。
手のひらに乗せ、しばらく見つめた。
それをゴミ箱に捨てた。
金属が底に当たり、小さな音を立てた。
クローゼットを開き、颯真が選んだ服には触れなかった。黒崎家の宴席のために誂えたものにも触れなかった。自分がもともと持っていたもの——着替え、薬、数冊の本を、古いスーツケースに入れた。
机の引き出しの中に、スケッチブックがあった。
しばらく眺めた。挟み込まれた紙には、三年分の記録が書き留めてある。持っていくつもりだったが、最終的に手は伸びなかった。
置いていこう、と思った。誰かが、あの日々の証人にならなければならない。
部屋を見渡した。
三年の痕跡が、至るところに残っていた。
温音はドアを閉めた。
邸を出たとき、空はまだ灰色に滲んでいた。
振り返らなかった。
颯真が戻ったのは、夜になってからだった。
玄関に入った瞬間、何かがおかしいと感じた。
静かすぎる。
邸はいつも静かだが、今夜の静けさは質が違った。温音の気配がない。
机の上に書類があった。
手に取って読む。
署名欄に、朝霞温音の名前があった。財産分割の欄は、すべて空白だった。
何も要らないと言ったのは、本気だった。
颯真は書類を置き、視線がゴミ箱に止まった。
腰をかがめ、中を覗き込んだ。
二つの指輪が、底に沈んでいた。
颯真はしばらくそこを見つめた。
胸の奥で何かが燃えた。それは心痛ではない、と自分に言い聞かせた。怒りだ。
——泣きながら、這って戻らせる。必ず、そうさせる。
邸を出た後、温音は賃貸の部屋を見つけて住み始めた。
部屋は狭く、採光が悪く、壁には古い水染みが一本走っていた。それでもここには、他の誰かの気配がなかった。突然響いてくる足音もなく、深夜にドアを開けられることもなかった。
それで十分だった。
三日後、川里枝から着信があった。
画面に表示された名前を見つめ、二度は切った。三度目に出た。
「温音」
川里枝の声は、予想よりずっと柔らかかった。
「ずっと考えてたんだけど、あなたに対して厳しすぎたと思って。一度だけ会って、ちゃんと話せたらと思って。せめて……お別れの食事、どうかしら」
お別れ。
温音の指が、膝の上でかすかに握り締められた。
この電話は何かがおかしい。三年間、川里枝は決して軟化しなかった。謝ったことも一度もなかった。連絡のたびに何かを要求し、何かを押し付けてきた。この突然の優しさは、温音の耳に石が水面に落ちるように届いた。波紋ではなく、水の底に何かが潜んでいる予感だった。
それでも。ずっと大切にされることのなかった渇望が、胸の奥でわずかに緩んだ。消えたはずの、それ。
「……わかった」
そう答えていた。
