第三章 母の裏切り
日出ホテルは港区一帯の老舗のビジネスホテルだった。高層で、落ち着いた内装を持ち、密やかな空間を必要とする客を静かに受け入れてきた場所。
温音が到着すると、案内係の女性がいちばん奥の個室へと導いた。
格子戸を引き開け、ひと目見渡した。
川里枝はいなかった。
畳敷きの座敷に、低い漆塗りの卓。前菜がすでに並び、隅の氷桶に清酒の瓶が立てかけられていた。上座に男が座っていた。スーツ、太った体、髪を油で撫でつけ、脇に杯を置いている。視線を上げて温音を見るその仕方が、皮膚に寒気を走らせた——品定めの眼差しだった。商品を値踏みする、あの種の視線。
格子戸のそばには男が二人立っていた。体格がよく、給仕の佇まいではない。
温音の指が、じわりと握り締まった。
男は訛りのある日本語で口を開いた。いかにも面倒くさそうな口調だった。
「お前の母親は、お前を俺に売ったぞ。三百万だ」杯を持ち上げ、口の端を持ち上げる。「座れ」
温音は動かなかった。
頭の中で何かが、静かに、ぷつりと切れた。
信じられないのではない。
信じすぎて、もう言葉が出てこなかった。
三百万。川里枝は娘を秤にかけ、値をつけ、渡した。古びた荷物を処分するように。邪魔なものを片づけるように。
これが、母親というものか。
踵を返した。
二人の男が同時に一歩前へ出て、格子戸を塞いだ。
立ち止まり、深く息を吸う。
頭痛がその瞬間に鋭く突き刺した。脳の奥底から外へ向かって押し広がるような痛みで、視野の縁があの見慣れた白い霧に滲み始めた。
それを無視した。目が部屋を一巡した。
低い漆卓の中央に、予備の白磁の急須が置かれていた。
温音は卓へと歩いた。
男は観念したと思ったのか、再び口の端を持ち上げ、後ろに体を預け直した。
俯いた体で急須を掴み、漆卓の縁に向かって思いきり叩きつけた。
白磁が硬い音とともに砕け散り、破片が四方へ飛んだ。身を屈め、一片を拾い上げる。
男が一瞬固まり、座布団の上に身を起こした。気配が硬くなった。
温音は男に口を開く隙を与えなかった。
破片を持ち上げ、自分の左頬に当てた。
この一秒、迷いはなかった。恐怖もなかった。
ただ奇妙なほど澄んだ明晰さがあった——
この顔は、最初から自分のものではなかった。
颯真はそれを恥とした。川里枝はそれを金に換えた。あの男はそれを視線で何度も値踏みした。
ならば壊してしまえ。
この商品を壊せ。この値札を壊せ。値をつけられ、売り渡され、行き先を決められる、あの目の中に映る自分を壊してしまえ。
傷跡が残るとわかっていた。顔が崩れるとわかっていた。この傷が消えないこともわかっていた。
それが何だ。
自分のために決断したことなど、一度もなかった。今度だけは、自分で選ぶ。
破片を引いた。
痛みが肉の深くから爆ぜた。実際の、骨まで刺さるような、否定のしようがない痛み。血がすぐに滲み出て、顎のラインを伝い落ち、畳の上に垂れて、深紅の染みをつくった。
泣かなかった。目すら閉じなかった。
ただそこに立って、男の顔色が赤から白へ変わるのを見ていた。座布団から跳び上がるのを見ていた。荒い罵声が飛んできた。本物の狼狽と嫌悪を含んだ、急いた声だった。
次の瞬間、温音は手の破片を喉の横に当てたまま、格子戸へと歩いた。
演技ではない。手は震えていなかった。
二人の男は首筋の破片を見て、まだ怒鳴り続けている主人を見て、どちらも動かなかった。
格子戸を押し開け、個室を出た。
外はもう雨だった。
どれほど走ったかわからない。雨が髪を濡らし、左頬の傷口に当たり、血と雨水が混ざり合って顎から滴り、また雨に流された。
足が止まったとき、多摩川の河岸に来ていた。
街灯も人影もない。雨が川面を叩き、細かく均一な水音を立てていた。対岸に点々と灯りが見えたが、遠すぎて、別の世界のもののようだった。
温音は岸へと歩み寄り、呆然と水面を見つめた。
一歩前へ出る。つま先が岸の石を踏んだ。
雨音、水音、風音。
頭の中が突然静かになった。その静けさは解放ではなかった。すべての音が遠のいたあとに残った、空洞だった。
個室の男の声が戻ってくる——お前の母親がお前を売った。三百万。
問い詰めるわけでも、怒るわけでもない。ただの取引だ。川里枝は娘を引き取り、二十年以上育て、使い道がなくなる前に最後の一滴まで絞り出し、値をつけて引き渡した。それだけのことだ。
颯真の声も戻ってくる——汚れた身代わり。最初から、ただの汚れた身代わりだった。
三年間。手術台。暗闇の中で一人で耐え抜いた夜々。
あれを乗り越えれば、何かが変わると思っていた。
変わらなかった。何も、最初から変わらなかった。
ただ誰かに必要とされたかった。一度だけでいい。一人だけでいい。
それすら、なかった。
温音は顔を上げ、対岸の灯りが雨の中でにじんで広がるのを見た。
目頭が熱かったが、涙は出なかった。いつの間にか、泣くことすらできなくなっていた。
走りきって最後の気力が尽きていた。頭痛が心拍に合わせて波を打ち、視野の縁が内側へと絞られていく。誰かがゆっくりと幕を引くように。
構わなかった。
もういい。
これでいい。
つま先がもう少し前へ滑った。
誰かがぐいと手首を掴んだ。
強い力で後ろへ引かれ、岸から離される。温音は二歩よろめき、倒れかけたが、その手に引き止められてどうにか倒れなかった。
振りほどこうとしたが、相手は放さなかった。
「放して」
放さなかった。
もう一度振りほどこうとした。もう力が残っていなかった。雨は降り続け、刃物のような冷たさで衿元に入り込んでくる。
膝が折れた。
その手は放さなかった。崩れ落ちようとする重みを受け止め、倒れていく方向とは逆へと引き寄せ——別の人間の体の中へと、引き込んだ。
頬が、濡れた布地に触れた。
雨音の中に、誰かの心音がある。安定した、力強い拍動。自分の乱れ切ったリズムとは、まるで違う。
顔を上げようとしたが、首がもう言うことをきかなかった。
白が四方から満ちてきて、最後の輪郭すら飲み込んでいく。
消える直前の一瞬、あの手を感じた——手首を掴んでいた手が、背中を支える手に変わっていた。
乱暴ではなかった。
落とさせたくない、というような力加減だった。
それから、何もなくなった。
