第四章 地獄帰路
目が覚めたとき、温音はあの白さをただ見つめていた。長いこと、動けなかった。
左頬の包帯がじくじくと熱を持ち、両手は包帯に巻かれていた。手の甲には留置針が刺さっており、細いチューブの中で液体がゆっくりと流れていた。
病院だ。それだけは確かだった。
だが、誰が運んできたのか。費用は誰が出したのか。今は何時か。
そういった疑問が頭の中をひと回りして、また沈んでいった。
——なぜ、助けた。
あの人は誰だったのか。深夜の大雨、多摩川の河岸——あそこに人がいる理由など、どこにもない。
思い出そうとしたが、何も浮かばなかった。落ちる直前の最後の一瞬、ずぶ濡れの布の感触と、確かで、有無を言わせない力だけを覚えていた。
その手は、ためらっていなかった。
温音は目を閉じた。
——あのまま終わらせてくれればよかったのに。
この世に、何の理由もなく自分に優しくしてくれる人間などいない。利用か、憐れみか。どちらも、いらなかった。
涙が落ちた。声もなく、枕へと流れ込み、誰にも見えない暗闇へと消えていった。
窓の外はまだ暗かった。明け方の五時か六時頃だろう。左頬の包帯は少し動かすだけで傷口を引っ張り、痛みが走った。
枕元のスマートフォンの画面が光った。
颯真からの着信だった。
温音はその名前を一瞬見つめてから、電話に出た。
「今日中に区役所へ来い」
冷たく硬い声。業務連絡を下すような口調だった。
「離婚届はこちらで用意してある。お前は署名するだけでいい」
間があった。
「来なければ、朝霞家を市場から消す」
通話が切れた。
温音は携帯を枕元に置き、天井を見た。
それから身体を起こし、手の甲から留置針を引き抜いた。看護師が扉を開けて入ってきて、まだ退院の許可が出ていないと言った。温音は答えなかった。衿元を整え、病室を出た。
区役所は新宿区の行政庁舎にあり、温音が着いたのは午前十時だった。
ロビーの人影はまばらだった。入口で少し立ち止まると、颯真が向こうの回転扉から入ってくるのが見えた。
黒いコート。後ろには助手がついていた。助手は書類フォルダーを手に持ち、窓口へと小走りに向かい、颯真は待合スペースの端に立った。
十数メートルの距離を隔てて、彼は温音を見た——左頬の包帯を、壁に手を添えて立つ姿を、透き通るほど白くなった顔色を。
眉がかすかに動いた。
ほんのわずかな動きだった。何かが刺さったような、それでいてすぐに押し込められた、ただそれだけの表情だった。
助手が戻ってきて、小声で何かを言った。颯真は視線を外し、窓口の方へ歩いた。
温音は後に続いた。
二人は窓口の前に座った。
助手が書類を担当者に差し出した。颯真の署名はすでに済んでいた。空欄になっているのは温音の分だけだった。担当者がペンを差し出し、温音はそれを受け取り、うつむいて、署名欄に自分の名前を書いた。
ペン先が紙の上を滑る音は、小さかった。
颯真は隣に座ったまま、彼女を見ようとしなかった。だが視界の端には、ずっとペンを持つ手が映っていた——かすかに震えていた。
担当者が書類を受け取り、確認し、押印した。
「受理が完了しました」
温音はペンを窓口に戻した。
颯真が立ち上がると、助手がすぐに従った。温音をもう一度も見ることなく、回転扉を押して出ていった。
温音はまだそこに座っていた。
ふと、左手を見下ろした。
薬指に、何もなかった。
スマートフォンがまた鳴った。
今度は川里枝からだった。
「温音!今すぐ朝霞家に戻ってきなさい!荷物は全部持って出て行きなさい!あんたみたいな疫病神、この家にいる理由なんてもうない!」
鋭い声が鼓膜を刺した。
すぐに声が低くなり、歯を食いしばるような口調になった。
「田中という方が、昨夜逃げたって言ってきたわよ。損害を補償しろって。あんたがこの家にどれだけ迷惑をかけたかわかってる?恥さらし」
川里枝の言葉の中では、すべての責任が温音の上に落ちていた。
温音は区役所のロビーを、行き交う人々をぼんやりと見た。
「……今から行きます」
電話が切れた後、しばらく立ち尽くし、それから足を引きずるように歩き出した。
朝霞家の物置は屋敷の側翼にあった。半地下で、庭の石段に続いている。
蛍光管は半分が切れていた。残った一本が、湿った空気の中で蒼白い光を明滅させていた。温音はその隅にしゃがみ、大学時代からの古い段ボール箱、画帖、バッグを一つひとつスーツケースに詰め込んでいった。
片付け終わって立ち上がった瞬間、左目の視野が断ち切れた。
徐々に暗くなるのではなかった。一瞬の、完全な暗転だった——左目がまっ暗になり、右目だけが世界を見ていた。世界が大きく傾いだ。頭の中で何かが締め上げられ、痛みが眼窩の奥から炸裂して後頭部まで貫いた。
脚から力が抜けた。
膝が先に着地し、石段の角に直接ぶつかり、そのまま崩れ落ちた。
「何をしているの」
川里枝が物置の入口に立っていた。「また大げさに倒れて。同情を引こうとして、いつまで続けるつもり?あんたにはもう何の価値もない。わかってる?颯真にも捨てられた。この家にもあんたは要らない。さっさと荷物まとめて出ていきなさい」
温音は顔を上げなかった。
左目はまだ闇の中にあった。
地面に手をついて、ゆっくりと身体を起こした。右膝のズボンが破れ、血が滲んでいた。スーツケースを引きずり、一歩一歩、石段を上った。
背後で大門が閉まった。
百メートルも歩かないうちに、視界がせばまっていった。左目は完全に見えない。右目も、白い靄に少しずつ飲み込まれていく。頭の痛みは潮のようで、波が引くたびにまた押し寄せてきて、息をつく間もなかった。
柵にもたれかかりながら、そのまま地面に座り込んだ。スーツケースが横に倒れた。
足音が屋敷の方から追いかけてきた。
「温音さん!」
家政婦のエロディだった。駆け寄ってきて温音の肩を支え、もう一方の手で携帯を取り出して救急に電話をかけた。
温音が次に目覚めたのは、午後になってからだった。
医師が椅子に腰を下ろし、画像フィルムを枕元の小さなテーブルに置いた。
「朝霞さん」
少し間を置いた。
「腫瘍が視神経を圧迫しています。進行が速い。今すぐ手術を行わないと、視力が——」
また言葉が途切れた。
「三か月以内に、命に関わります」
病室が静まり返った。
温音は天井を見た。
「三か月」という言葉を聞いた今、胸に湧いてきたのは恐怖ではなかった。奇妙なほど静かな、柔らかい弛緩だった。
——ようやく、休める。
生き続けるには力がいる。もう残っていなかった。
「先生」
声は、穏やかだった。
「痛み止めを処方してもらえますか」
医師がわずかに目を止めた。
「手術については——」
「薬だけでいいです」
