第五章 白崎時透の介入

退院手続きを済ませ、大ホールへと続く廊下を曲がったとき、温音は顔を上げた。

向こうから、二人が歩いてきた。

颯真。

そして澄花。彼の腕に手を絡め、肩に頭を預けたまま、何か話しながら笑っていた。

視線が、颯真の目とぶつかった。

澄花は少しも驚いた様子を見せなかった。ただわずかに首を傾け、ほどよい驚きを装った。

「温音、顔どうしたの」

声は柔らかかった。「そんなに包んで……颯真、見て」

颯真へと向き直り、自然な口ぶりで言う。その目の奥で、何かが一瞬光った。

「温音、ここ人が多いんだけど……何かあったなら、電話してくれればよかったのに」

声は穏やかで、心配しているようにも聞こえたし、あなたはここにいるべきじゃない、とも聞こえた。

颯真は何も言わなかった。

その視線が、温音の手にある封筒の上に落ちた。眉間に深く皺が刻まれ、目は冷たいが、瞳の奥で何かが収縮していた——温音にはなじみのある表情だった。疑念、審視、そしてもっと深い、本人さえ気づいていないかもしれない何か。

温音は視線を下ろし、手の中の封筒を見た。

診断書。手術リスク評価。主治医の署名。病院の公印。三ヶ月。視神経圧迫。脳部腫瘍、末期。

指に力が入った。

封を開けて、差し出したかった——ちゃんと見て、これは演技じゃない、手段でもない、これが命だ——

そのとき、澄花が小さく「ん」と声を漏らし、足を止めた。廊下の手すりに手をついた。

「颯真、ちょっと待って……」

声がか細くなり、ほどよい弱さを帯びた。

颯真はすぐ体を向け、腰に手を添えた。その声に、緊張があった——温音が三年間の結婚生活で一度も聞いたことのない種類の。

「どうした、どこか具合が悪いのか」

「ちがうの、大丈夫……」澄花は小さく首を振り、睫毛を伏せた。「歩くの速かったから、ちょっと目眩がして」

颯真の体へもう少しだけ寄りかかり、声はさらに小さくなった。「少し立ってれば、治るから」

颯真が屈んだ。そのとき見えた横顔、その手、その姿勢——穏やかで、集中していて、気遣わしげで——すべて、温音が三年間一度も見たことのないものだった。

嫉妬ではなかった。嫉妬するには、残っているものが要る。

もう何も残っていなかった。

封筒はまだ手の中にあった。温音はそれをしばらく見つめた。

迷っているのではなかった。ひとつのことを整理するための時間だった——この紙は、誰の役に立つのか。颯真には意味がない、信じないから。澄花には意味がない、関係ないから。川里枝には意味がない、それで脅しに使うだけだから。

自分にも、もう意味がなかった。

廊下の脇にゴミ箱があった。温音はそこへ歩いていき、封筒を入れた。

躊躇いもなく、最後にもう一度見ることもなく。ただそのまま、入れた。

その場に一秒だけ立っていた。胸に何の感覚もなかった——麻痺ではなく、本当に空っぽになっていた。

軽くなった。

その考えが脳裏にひらめき、あまりのばかばかしさに笑いそうになった。

笑えなかった。

大ホールを抜け、病院の正面出口へと向かう。背後では、颯真と澄花の声がまだしていた。振り返らなかった。

出口に近づいたとき、前に人影が立った。

「よう、久しぶり」

ジョシュアだった。澄花に付き纏っていた男で、颯真の周囲に出入りしている人間で、笑顔の作り方を熟知した種類の人間だった。その笑顔と、品定めするような目が今、一緒に向けられていた。

「離婚したのに、病院まで来るの?」声を落としていたが、周囲に届くくらいの加減だった。「黒崎家に三年も養ってもらって、その様か」左頬の包帯の上に視線が止まった。「その顔……」低く笑った。「自分でやったの?転んだの?どっちでも同じか、誰も気にしないし」

温音は何も言わなかった。

「颯真もようやく分かったわけだ。まあそうだよな、お前みたいな——」

手が上がった。肩を押そうとした。

横から一本の腕が伸びてきて、その手首を掴んだ。

「ここは病院だ」

低く、感情のない声だった。

ジョシュアが振り返った。その顔が、瞬時に固まった。

白崎時透。

白崎グループの継承者、黒崎家と資本上の対立関係にある男——財界に、その名を知らない者はいない。颯真でさえ、正面衝突は意識して避けていた。ジョシュアの立場では、どう考えても敵に回せる相手ではなかった。

時透はジョシュアを見ていなかった。ただ一歩踏み出し、温音とジョシュアの間に立って、その距離を塞いだ。

握られていた手首をジョシュアが引き戻した。今度は手が離れた。空咳をひとつし、袖口を整えて、一言も言わずに背を向けた。足取りは早かった。

時透が温音を向いた。

「大丈夫か」

疑問ではなく、確認だった。温音は彼の顔を見て、一秒止まった。

病室で、一度だけ意識が戻ったことがあった。光が刺さるほど明るく、頭がまだ動いていなかった。横を向いたら、椅子に誰かが座っていた。看護師だと思い、声を出そうとしたが何も出なかった。そのまま意識が沈んでいった。その顔の輪郭が、はっきりしないまま記憶の片隅に残っていた。

目の前の顔と、その輪郭が重なった。

あなただったんだ。

声には出さなかった。手の中のスマートフォンが振動した。

画面には「お母さん」と表示されていた。

その表示を一秒見つめ、体を横に向けて、電話に出た。時透は離れず、ただ半歩だけ脇へ引いた。

「温音!」

川里枝の声が耳に入り込んできた。

「田中さんのほうが五百万の賠償を求めてるのよ!出した三百万と、二百万の補償、一銭も欠けちゃ駄目!五百万よ!五百万がどれだけのお金か分かってるの!今すぐ颯真のところへ行きなさい、頼み込みなさい、土下座してでもいい、体で払ってもいい、とにかくそのお金を取り返しなさい!できなかったら、あの夜あんたが自分から男のところへ行ったって言いふらすから。自分でやったくせに被害者のふりして顔を傷つけた、そう言うから——私はあんたの母親よ、私が言えば誰だって信じるわ!」

温音の指が、強く締まった。

川里枝はあの夜のすべてを知っていた。知っているからこそ、嘘の穴がなかった。反論できるものは何もなかった。自分の娘が堕ちたと言い張る母親に、温音には何一つ対抗するものがなかった。

通話が切れた。温音はスマートフォンを手の中で握ったまま、動かなかった。

時透はまだそこに立っていた。温音は彼を見なかった。彼も口を開かなかった。

バッグを肩に掛け直し、彼の横を通り過ぎて出口へ向かった。

駐車場の車に乗り込み、ジョシュアは携帯を取り出した。

病院の入り口でのやり取りで、見るべきものは十分に見た。

時透が手を出したことは驚かなかった。驚いたのは、時透が温音へ向けた目線だった——見知らぬ人間に向けるものではなかった。知っている、それ以上かもしれない何かを含んでいた。颯真の周囲で長く過ごしてきたジョシュアには、その程度の読みはできた。

颯真の番号を押した。

「颯真、さっき病院で温音に会ったよ」何でもない口ぶりで言った。「白崎時透もいた。二人、かなり親しそうだった。普通の知り合いじゃなさそうな感じがしたけど」

電話の向こうで沈黙があった。

「……時透が?」

「自分の目で見た」ジョシュアは少し間を置き、声に微妙なニュアンスを滲ませた。「颯真、まだ彼女のこと気になってんの?」

返答はなく、通話が切れた。

ジョシュアは携帯をポケットに戻し、口の端を引いた。

颯真が聞いていたのは分かった。

澄花のほうも——携帯を取り出し、澄花の連絡先を開いて、今のことを簡単に送った。

送信してシートに背を預け、返信を待った。

すぐに来た。三文字だった。

「分かった」

落ち着いた口ぶりで、まるで最初からこうなると知っていたような平静さだった。

颯真は携帯をスーツの内ポケットに戻し、会社の建物前の駐車場に立ったまま、すぐにはエレベーターへ向かわなかった。

三歩先で運転手が待っていた。声を出さなかった。

温音。時透。

その二つの名前が、頭の中で並んで立っていた。胸の奥深くで何かが燃え上がった。怒りだ——そう判断して、それ以上は考えなかった。

携帯を手に取り、温音の番号を押した。

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