第六章 彼女は彼に返せない
長い呼び出し音の末、電話が繋がった。
「絵が一枚、別邸に残っている」
颯真は自分の声を聞いた。あの絵がどれほど長く放置されていたか、自分が一番よくわかっていた。「明日、取りに来い。来ないなら捨てる」
沈黙。
「わかりました」
それだけだった。一言で、通話は切れた。
颯真はその場に立ち尽くした。
その一言が胸の内に引っかかり、どこかがおかしいと思いながら、それが何なのか掴めなかった。以前はこうではなかった——以前の彼女は言い訳をして、弁解して、泣きながら許しを請うて、必ず何かしらの反応を見せた。それが今は、たった一言だ。まるで自分とは無関係の事務処理をするような、あの落ち着き払った声。
翌日、温音は鎮痛剤を飲んで、どうにか別邸まで辿り着いた。
いつもの倍の量を飲んだが、頭痛はまったく引かなかった。最寄り駅から門まで十分もない道のりだった。それでも途中で足を止め、眩暈が過ぎ去るのを待ってから、また歩き出した。
執事がドアを開け、傍らに退いた。颯真は客間の中央に背を向けて立ち、鎌倉の山の眺めを窓越しに見つめていた。
足音を聞いて、ゆっくりと振り返る。
温音の顔を見た。
白かった。顔色が悪いというより、内側から色素が抜け落ちたような白さだ。唇はほとんど血の気がなく、左頬の包帯の縁に薄い滲みがあった。そうして彼女は立っていた。背筋は伸びたまま、バッグの肩紐を指先で押さえていた。その指の関節も、白かった。
演技だ。颯真はそう判断した。
「絵はそこだ」顎でソファの方向を示した。
それはずいぶん前に描いた海辺のスケッチだ。練習用の一枚で、別邸に忘れたまま放置されていた。温音は近づいて、身をかがめて手を伸ばした。
「五百万の件だが」
彼女の手が止まった。
「俺が解決してやる」颯真は二歩前に出た。声は平坦だった。「条件は分かるだろう——以前と同じでいい」
温音は身を起こし、颯真を見た。
頭の中は空白だった。天秤にかけているわけでも、五百万のことを考えているわけでも、何かを思案しているわけでもない。ただ空白があって、その空白の中から、言葉がひとつ浮かんできた。
「嫌です」
説明もなく、躊躇もなく、それだけだった。
颯真の目が沈んだ。
彼女の目には何もなかった。懇願も、恐怖も、怒りも。その完全な静けさが、どんな反応よりも颯真の何かをざわつかせた——あの顔で俺を見るな。かつて泣きながら許しを乞う姿を、彼は憶えていた。床に膝をついて俯いていた姿を、憶えていた。そんな彼女が、今はこんな目で自分を見ている。その資格が彼女にあるとは思えなかった。
「逃げられると思っているのか」
一歩詰め寄って、手首を掴んだ。彼女の手首は冷たかった。異常なほど冷たい。掴んだ瞬間にそれを感じたが、気に留めなかった。
そのままソファに押し込んだ。温音は抵抗しなかった。
その一点で、颯真は一瞬止まった。以前は抵抗した。泣いて、自分のあらゆる力を使って止めようとした。それが今は何もない。彼女はただ横たわったまま、視線を横の壁に向けて、目を開けていた。焦点は、どこにも定まっていない。
もうここにいない人間が、空の器だけを置いていったように見えた。
その考えが頭をよぎった瞬間、馬鹿馬鹿しくて手を離したくなった。離さなかった。圧し掛かって、十分な力を込めて、何か反応を引き出そうとした——怒りでも、涙でも、何でもよかった。
温音は目を閉じた。
それだけだった。抵抗もなく、応じることもなく、何もなかった。
終わったとき、別邸は静まり返っていた。
窓の外の光は傾いていた。橙色が床に流れている。
温音はその場に長い間座ったまま、頭の中は空だった。
穏やかなのではない、空なのだ。何かを盛っていた器がすっかり空になって、底の染みひとつ残っていないような空白だ。痛みは身体のどこかにあったが、それは他の誰かの痛みのようで、何か一枚隔てたところから伝わってきて、芯には届かなかった。
私はもうここにいない。
その考えが脳裏を漂ったが、不思議とは思わなかった。
三年前、結婚した夜のことを思い出した。ようやく恩を返せると思ったこと。彼と結婚することが正しいと思ったこと。
最初から、全部間違いだった。
散らばったものをひとつずつ拾い、身につけ、留め具を嵌める。それぞれの動作はばらばらで、互いに繋がっていなかった。
立ち上がった。
客間に戻り、ソファの端に立てかけてあった海辺のスケッチを手に取った。
外へ向かった。石畳の上に落ち葉が積もっていて、踏んでも重さがなかった。
門を出るとき、膝が一瞬ふらついた。柱に手をついて一秒待ち、それからまた歩いた。
どれくらい歩いたかわからない。また脚から力が抜けた。
低い塀を背にして座り込み、胸に絵を抱えていた。
あたりは静かで、ときおり車が通り過ぎ、風が落ち葉を揺らした。
唇が動いていた。
温音自身は気づいていなかった。ただその声が喉の奥でずっと回り続けていた。もうその声は、自分とは別のところにあるようだった。
「……私、彼に借りがある……彼に借りがある……」
一台の車が、目の前で止まった。通り過ぎるのではなく、速度を落として、正面に止まった。
ドアが開いて、誰かが降りてきた。近づいてきた。温音の前に屈んだ。
顔を上げなかった。
相手が視界に入ってきた。
病院で見た男だ。多摩川河岸で見た男だ。
時透の視線が、首の横に落ちた。そこで止まった。衿が半分を隠していたが、隠しきれない部分が露わになっていた——薄く何本か残された痕。誰が見ても、それが何を意味するかわかる。彼の目の奥で何かが揺れた。深く、急く何かが。それは押し込められたが、完全には消えなかった。
何も言わず、上着を脱いで、温音の肩に掛けた。
布の重さが落ちてきた。温かくて、肩と腕をすっぽりと覆った。
温音は顔を上げた。
涙が頬を伝い落ちた。一粒ではなく、長い時間溜め込んでいたものが、ようやく出口を見つけたような涙だった。声はなく、止まらなかった。
「どうして……」声が擦り切れていた。何かが削り取られてしまったような声だった。「あなたは何度も何度も、私を助けるんですか」
時透は何も言わなかった。
温音を助手席に乗せ、自分も乗り込み、エンジンをかけた。暖気が静かに流れ始め、温音の濡れた上着の縁から細い湯気が立ちのぼった。
「どうして」
温音の声はまだ掠れていた。涙の跡が頬に残ったまま、時透の上着を両手で握り、膝の上に置いていた。「何度も何度も来て、どうして助けるんですか」
時透はしばらく沈黙して、正面を見つめたまま言った。
「ちゃんと生きていてほしいから」
温音は答えなかった。上着を握る指が少しずつ緩んで、でも完全には離れないで、そこに止まった。自分でも気づいていないようだった。
その言葉が、静かに沈んでいった。
温かいとは思わなかった。ただひどく、痛かった。
生きていることは恵みではなく、もっと罰に近かった。
「……生きていても」
声が途中で割れた。
「何も変わらないのに」
時透は答えなかった。
ただ左手を持ち上げて、握りしめた彼女の手の上に、静かに重ねた。一瞬だけ。
それだけだった。
温音は泣かなかった。目を閉じて、その一瞬の重さを、ただ感じていた。
