第九章 命を賭けた自由

廊下の奥から、革靴が床を叩く音が聞こえてくる。一歩、また一歩。何かのカウントダウンのように。

颯真が来た。

後ろに弁護士、医療顧問が二人、三村天、警護員が四人。誰にも目をやらず、視線は廊下の奥の病室扉に固定されている。

「どけ」

命令だった。頼みでも相談でもない。

「ここは医療施設です」

時透が廊下の中央に立ち、一歩も退かない。「あなたには権限が——」

「権限?」

颯真がはじめて時透に目を向けた。横目で、一瞥だけ。

「黒崎家が連れ帰る人間に、権限などという言葉は存在しない。三村天」

三村天が進み出て、分厚い書類の束を時透の前に差し出した。監護権申請の副本、黒崎グループの法務通知、そして家庭裁判所の受理通知書。

「白崎さん」三村天の口調は事務的だった。「法律上、精神状態に疑義のある患者については、直系親族が治療の手配に介入する権限を有します。黒崎さんはすでに監護権を申請しております。受理期間中、患者は無断で離院することができません」

時透はその書類を受け取らなかった。

「元妻ですよ」と彼は言った。「親族ではない」

「俺が言えば、そうなる」

颯真の声は平坦だった。それなのに、フロア全体が静まり返った。

「白崎、お前には俺を止められない。止めようとする気にもなれないはずだ——お前が抱えているあのプロジェクト、もう一戦分の体力は残っていないだろう」

廊下が、一瞬、静止した。

その時、病室の扉が開いた。

温音が、そこに立っていた。

車椅子ではない。誰かに支えられてもいない。病院着のまま、髪を下ろして、顔は紙のように白い——それでも彼女は一歩一歩、自分の足で廊下の中央まで歩いてきた。颯真から五歩のところで、立ち止まった。

「黒崎さん」

声は低く、しかし廊下にいる全員の耳に届いた。

「離婚の手続きは終わりました。財産も一切いただいていません。法律上でも、人情の上でも、私たちの間のことはすべて清算しました」

颯真は答えなかった。

「ですから」彼女はわずかに間を置いた。「もう二度と、私のところには来ないでください」

言葉が落ちた後、廊下には、空調の低い唸りだけが満ちていた。

颯真はじっと彼女を見た。彼女の目には何も映っていない。それでも彼女は真っ直ぐに立っていた——限界まで張り詰めながら、それでも切れていない弦のように。

彼は笑った。嬉しそうな笑いではなかった。信じられないという笑いだった。

「清算、か」

声が低くなる。

「温音。俺たちの間のことが、そんなに綺麗に清算できるのか」

一歩、前に出た。

「俺がお前の何を一番嫌いだか、知っているか」彼は言った。「お前はいつも、自分がこの関係の終わりを決められると思っている」

彼女の正面に立ち、見下ろした。

「この関係をいつ終わらせるか、決めるのは俺だ」

手を伸ばし、彼女の手首を掴んだ。力を込めたわけではない。それでも振り解けない。

「帰るぞ」

温音は動かなかった。

帰る——どこへ。誰も自分を信じてくれなかった場所へ。あの手術台へ。死を待つ場所へ。

抵抗しなかった。

ゆっくりと、少しずつ、膝を折っていった。

石造りの床は冷たかった。膝が当たっても、眉ひとつ動かさない。

颯真は彼女が跪くのを見た。彼女の手首を掴んでいた手が、一瞬、緩んだ。

「黒崎さん」声は低く、揺れなかった。「お願いです。時透さんを解放してください。彼は何も関係ない。逃げ出したのは私自身の判断で、私一人の責任です。何でもします、だから——」

「またそれか」

颯真が遮った。自分でも思ったより、柔らかい声が出た。

「立て」

「演じてなどいません」

「立てと言っている」

屈んで、彼女の手首を掴み、引き起こした。その手首は異常なほど冷たく、掴んだだけで骨の形がわかるほど細かった。触れた瞬間、胸の内で何かが揺れた。すぐに押し込んだ。

「帰るぞ」彼女を引いて歩き出す。面倒な手続きを処理するような口調で。「黒崎家のことは俺が片付ける。お前はただ——」

「嫌です。放してください」

温音が腕を引き戻そうとした。振り解けない。そんな力は、もう残っていなかった。

「放せ」

時透の声が背後から届いた。低く、厳しく。

「今すぐ」

颯真が振り返る。二人の視線が交差し、どちらも動かない。

その一秒間、廊下に音はなかった。

温音は抵抗していなかった。ただそこに立ち、俯いて、待っていた。この待ち方を、颯真はよく知っていた。三年間、いつもそうだった——彼女は立ったまま待つ。彼が力を使い果たすまで、事が過ぎ去るまで、ただ待つ。

しかし今回、彼女が待っていたのは「諦め」ではなかった。

彼女が待っていたのは、好機だった。

手が、病院着のポケットに伸びた。

果物ナイフ。刃が短い、病室で果物を切るための。昨日の午後、看護師が切ったリンゴを運んできた。食べなかった。ナイフだけ手元に残した。それを握る手は、静かだった。

時透がナイフを見た瞬間、全身の血が下に抜けた。前に飛び出した。間に合わないとわかっていても。

温音がナイフを持ち上げた。

どこに刺せばいいか、わかっていた。人体のどの位置なら、血が大量に流れても、すぐには死なないか。

刃先が、左胸のやや下に当てられた。

「黒崎さん」彼女の声には、波ひとつなかった。「あなたはずっと、私には借りがあると言い続けた。三年間——手術台でも、別邸でも。借りがあるから逃げられない、借りがあるから言うことを聞けと」

「そのナイフを——」

「借りを返すなら、命で返します」

刃が、入った。

脇腹ではない、腕でもない、脅しでもなかった。刃先が入った位置は、彼女が計算して選んだ場所だった。

くぐもった音。

温音が崩れ落ちた。

時透が駆け寄り、床に跪いて、彼女の体を受け止めた。頭が床に打ちつけられないように。血が病院着から滲み出し、みるみる白い胸元を赤く染めていった。

「温音——温音——」

彼女は目を開いたまま天井を見上げ、唇がわずかに動いた。ほとんど音のない声で。

「……騙せた」

時透の瞳孔が収縮した。

最初から、考えていた。この一刺しは計算されていた——死なない。でも血が大量に流れる。判断力を奪える。彼女は自分の命を使って、あの「死」に最もリアルな幕開けを作り出した。

「正気か——」時透の声が震えていた。

「正気ですよ」温音が口の端を微かに引いた。「こんなに頭が冷えたことはない」

医療スタッフが廊下の両端から押し寄せた。温音はストレッチャーに乗せられ、手術室の方向へ運ばれていった。仰向けになったまま、廊下の天井の灯りが一つずつ後ろへ流れていくのを見ていた。

颯真は廊下の真ん中に立ち、動かなかった。

ストレッチャーが目の前を通り過ぎるのを見た。血が床に垂れ、途切れ途切れの赤い跡を引いていくのを見た。手術室の扉が閉まるのを見た。

俯いて、自分の手を見た。

さっきまで、彼女の手首を掴んでいた手。冷たかった。

自分の手が、震えていることに気がついた。

手術室の赤いランプが、灯った。

手術室の外の廊下で、時透は長く立ち尽くしていた。手術はまだ続いており、赤いランプはまだ消えていない。廊下が再び静まり返った頃、内ポケットから分厚い封筒を取り出した——温音が手術室に入る直前、自分のポケットに押し込んできたものだ——力を込めて、颯真の胸元に叩きつけた。

颯真が反射的に受け取った。

封筒の中に入っていたもの。医療報告、診断書、CTの画像、血液検査結果、眼科評価、栄養状態報告、そして産科の記録が一枚。一枚一枚、すべてに病院の公印と担当医の署名があった。

視線が一行ずつ流れていった。

悪性腫瘍。視神経圧迫。重篤な栄養不良——入院時の体重は標準値の六十三パーセント。失明リスク、高。生命予後——

指が、その行の上で止まった。

「これは——」

「本物です」

時透の声から、何もかもが抜け落ちていた。

「この三年間、あなたは何をしていたんですか」

颯真の唇が動いた。「知らなかった——」

「知ろうとしなかっただけだ」

時透が身を翻し、集中治療室の方向へ歩き出した。数歩進んで、立ち止まった。振り返らない。

「一つだけ、聞かせてください」

声は完全に平静だった。

「七年前、川辺であなたを助けた人間が——本当に誰なのか、知りたいですか」

颯真の視線が固まった。

「……どういう意味だ」

時透は答えなかった。廊下の奥に消えていった。

颯真はその場に立ち尽くし、手の中の診断書を握りしめた。指の関節が白くなっていた。

七年前。

雨の夜。川のほとり。誰かが泥水の中に跪き、彼の手を握り続けた。救急車が来るまで、ずっと。

ずっと、澄花だと思っていた。

手術室の赤いランプが消えたのは、夜半を過ぎた頃だった。

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