第2章
更衣室のドアが、弾け飛ぶような轟音を立てて開かれた。ヘッドコーチの田中隆が、鬼の形相で飛び込んでくる。彼が目にしたのは、床に広がった吐瀉物の中に膝をつく山田真理と、その妹を冷然と見下ろす私の姿だった。
「山田佳織ッ!」彼の怒声が部屋中に響き渡った。「貴様、真理に一体何をした!」
私はゆっくりと彼の方へ向き直ると、唇の端に冷たい笑みを浮かべた。
田中隆――私の元婚約者であり、かつて愛した男。だが今の彼を見つめても、NHKのインタビューで私を裏切り、嘲笑いながら破滅へと追いやった男の姿しか思い出せない。
なんて分かりやすい。大事な真理ちゃんを助けに、一番に駆けつけるなんて。
「この子が私にしようとしたことを、そのまま返してあげただけですよ」私の声は、少しも揺らがなかった。「何か問題でも、コーチ?」
田中隆の顔が怒りで真っ赤に染まる。「その態度はなんだ! お前たちはチームだろうが!」
私は、ふ、と息を吐くように笑った。その氷のように冷たい響きに、何人かのチームメイトがびくりと後ずさる。
「チーム? 私を毒殺しようとした相手と、ですか? 冗談も休み休み言ってください」
その言葉は、まるで平手打ちのように場の空気を張り詰めさせた。田中隆は口をあんぐりと開けている。彼が知る『山田佳織』からは、想像もつかない反抗的な態度だったのだろう。
「真理はただ、お前を助けようと……」彼が言いかける。
「助ける?」私は空になったスポイトの小瓶を掲げてみせた。「得体の知れない薬品で、私のボトルに細工をして? ええ、本当に『助かり』ますね」
真理はようやくえずきを止め、涙の膜が張った瞳で田中隆を見上げた。
「コーチ……佳織お姉ちゃんがどうしちゃったのか分からないんです。ただ電解質を混ぜてあげようとしただけなのに、急に人が変わったみたいに……」
アカデミー賞ものの名演技だ。吐瀉物にまみれ、屈辱に震えながらでさえ、彼女は完璧に哀れな被害者を演じきってみせる。前の人生の私なら、今頃は罪悪感に苛まれていただろう。彼女の巧妙な芝居に騙され、きっと謝って、医務室まで付き添ってあげたはずだ。
だが、私の中で何かが決定的に変わってしまった。裏切りの痛み、衆人環視の中で孤独に死んでいった記憶――それが、かつての世間知らずな少女の面影を、跡形もなく焼き尽くしたのだ。
「どの口が言うのかしら」世間話でもするような軽やかな口調で言うと、周囲の選手たちが息を呑んだ。「見せてあげなさいよ、そのスポイトに本当は何が入っていたのかを。さあ、どうぞ」
田中隆は狼狽したように視線をさまよわせ、彼の記憶にある従順なアスリートと、目の前の冷徹な女との間で明らかに葛藤していた。
「山田、少し落ち着け――」
「いいから、黙って聞きなさい」私は声を危険な囁きへと落として遮った。「あなたの大事な真理ちゃんが、協会のエース選手に薬物を盛ろうとして現行犯で捕まった。この事実を、日本体操協会にどう説明するか、よく考えた方がいい」
後に続いたのは、耳が痛いほどの沈黙だった。事の重大さに気づき、田中隆の顔色が変わっていく様を、私はじっくりと観察する。
薬物スキャンダルは、私の選手生命を終わらせるのと同時に、彼のコーチとしてのキャリアをも破壊する。
彼の瞳に、保身の色が浮かぶのが見えた。コーチとしての未来と、目の前の醜聞。その二つを天秤にかけているのだ。私が何をどこまで知っているのか、探るような視線。
答えは、すべて。
彼らが私を無垢で愚かだと高を括り、目の前で何が起きているかすら理解できないと侮っていた、そのすべての瞬間を、私は覚えている。
そして、この次に何が待ち受けているかも、知っている。
二時間後、私たちは午後の練習のためメインアリーナにいた。空気は嵐の前の静けさのように、ピリピリとした緊張で満ちている。
真理は練習に参加できるくらいには回復していたが、顔色は青白く、まだ体が小刻みに震えているように見えた。彼女は、見せつけるように段違い平行棒の前に陣取っている。
「みんな、見てて」真理は低い方のバーを握り、スイングを始めながら声を張り上げた。「これが、正しい演技よ」
まだ主役を演じたいらしい。隣の段違い平行棒へ移動しながら、私は内心で嘲笑した。性根はそう簡単には変わらないものだ。
他の選手たちは私を遠巻きにし、気づかれていないとでも思うのか、おずおずとこちらに視線を送ってくる。
結構なことだ。恐怖は、時に人間を正直にさせる。
私は自分のルーティンをこなしながら、真理の動きを慎重に計っていた。彼女は低い方のバーで勢いをつけ、脚を振り上げて高さを稼ぎ、グリップを解放して高い方のバーへと宙を舞う瞬間に備えている。その体は完璧なリズムで弧を描く。昔から、彼女の売りはその正確なコントロールだった。
しかし、誰にでも弱点はある。そして私は、彼女の弱点がどこにあるのかを正確に知っていた。
真理のスイングが最高点に達し、リリースポイントを計算している、まさにその刹那。私は意図的に重心をずらし、全体重をかけて自分の平行棒を傾けた。
ガシャン、と鈍い金属音と共に、私のバーが隣の真理のバーに激突する。その衝撃は、タイミングを狂わせるには十分だった。
真理の手が、鉄棒から滑り落ちる。制御を失った体は無様に宙を舞い、分厚い安全マットの上に尻から叩きつけられた。湿った、鈍い音がフロアに響き渡った。
「あら、ごめんなさい!」私は、偽りの心配をたっぷりと含んだ声で呼びかけた。「真理、どうやらスイングのタイミング、間違えちゃったみたいね」
真理は苦痛と怒りで顔を歪めながら、もがくように起き上がろうとした。
「事故じゃないわ! わざとやったでしょう!」
私は自分の平行棒から優雅に飛び降り、両足で完璧に着地を決める。その淀みない動きに、見ていたチームメイトたちから小さなどよめきが起こった。
「事故? 体操で? 驚いたわ。もっと注意した方がいいんじゃないかしら」
田中隆が真理の元へ駆け寄る。その顔は心配一色だ。
「怪我は? 体は動かせるか?」
「大丈夫です」真理は歯を食いしばって答えたが、恐る恐る尾てい骨のあたりをさすっているのが見て取れた。「意図的な妨害行為です!」
「証明してごらんなさいよ」私はそう言い放ち、すでに床から一メートル以上の高さに設置された、細い平均台に向かって歩き出していた。「練習中の事故なんて日常茶飯事よ。ここにいる誰に聞いても、同じことを言うわ」
他の選手たちは、不安げに顔を見合わせている。この新しい私をどう解釈すればいいのか、明らかに戸惑っているのだ。
どちらの側につくか、選ばせればいい。それで、彼女たちが自分の立ち位置を理解するだろう。
午後六時になる頃には、更衣室はほとんど空になっていた。私は待っていた。真理が二人きりで話そうと、私を追い詰めてくることを知っていたからだ。
私が着替えていると、彼女が近づいてきた。昼間の強気な態度は消え、脆さが滲み出ている。午後の『事故』のせいで、その動きはぎこちなかった。
「佳織お姉ちゃん、お願い」彼女の声はか細かった。「私たちは家族でしょう。私が何か悪いことをしたのなら、謝るから……」
私はゆっくりと彼女の方を向いた。私の表情の何かが、彼女を後ずさりさせた。
「よくお聞き、この寄生虫。この場所は私の聖域。私の人生そのもの。そしてあんたは、それに巣食うただの害虫よ」
彼女が反応する前に、私は真理の体をロッカーに叩きつけ、逃げられないよう前腕で喉を圧迫していた。
真理の目が、本物の恐怖で見開かれる。
「お姉ちゃんがどうしちゃったのか、分からない……」
ようやく。腕の下で、彼女の脈が恐怖に速まるのを感じる。ようやく、本当の私が見えたようね。
私は顔をぐっと近づけた。
「私がどうしたか、ですって? 目が覚めたのよ。もう一度私に逆らったら、あなたという存在を、この世から消してあげる。体操選手としてのキャリアだけじゃない。あなたの評判、人間関係、未来。そのすべてを灰になるまで焼き尽くして、その様を特等席で見物させてあげるわ」
彼女の全身が、今はっきりと震えている。
「佳織お姉ちゃん、怖い……」
「結構なことね」私は囁いた。「だって、次に私を毒殺しようとしたり、哀れな被害者ごっこをしたりしたら、ただ自分の薬を飲ませるだけじゃ済まないから。あなたが本当はどんな性悪な嘘つきか、みんなにきっちり教えてあげる」
私は彼女を解放して一歩下がり、ロッカーにもたれかかるように崩れ落ちる彼女を見た。喉には、すでに圧迫された赤い痕が浮かび上がっている。
「良い夢を、真理」
まるで天気の話でもするかのように、私はにこやかに言い放った。






