第3章 ちょっと恋しくなった

「結婚……?」その一言に、私は固まった。

 私が反応できないでいると、神崎倫司は口の端に不良っぽい笑みを浮かべたまま、ふらふらと距離を詰めてくる。

「凪っちゃん、まさか結婚式のことまで忘れた? ……それならそれで、別にいいけど」

 そう言いながら、彼は私の髪を指で掬い上げ、深く息を吸った。

 ぞくり、と背筋が粟立つ。

「忘れたならちょうどいい。『俺と一緒にいる』って言ったんだろ。だったら――もっと派手な式、用意してやる」

「俺とお前、二人の結婚式。どう?」

 私は衝撃の中で言葉を拾えなかった。

 頭の中が真っ白で、神崎倫司が何を口にしたのかさえ、まともに聞き取れていない。

 ――そうだ。

 私は宮本良介と結婚する前の時間に、戻っている。

 思い出した。前の人生でも、式の前に宮本良介と海へ来たことがある。

 その時、私は何気なく言ったのだ。いつか海の近くで遊べたらいいな、と。

 宮本良介は、それを覚えていた。

 三年も、ずっと。

 そして三年後――私が夢見た場所へ連れて行き、そこが私の墓場になった。

 宮本良介の名を思い浮かべるだけで、腹の底から憎しみが煮え返る。

 今世で、あいつに嫁ぐわけがない。

 この結婚式は修羅場に変えてやる。

 宮本良介を、Y市中の笑いものにしてやる。

「凪っちゃん、決めた? 俺か、あいつか」

 甘く絡みつく声が耳元に落ち、私は肩を震わせた。

 目の前の男を見上げたまま、悟られないように数歩下がる。

「……ないです」

 神崎倫司が不満げに眉を寄せる。

「ないって、何が」

 私は息を整え、平然と言った。

「結婚式はありません」

 神崎倫司は一瞬きょとんとし、次の瞬間、楽しそうに手を叩いた。

「効いたな。俺の“忠告”」

「じゃあ、俺にしろよ」

 忠告――?

 その言葉で、記憶が鋭く刺さる。

 前の人生、結婚式の前。

 見知らぬ番号から『宮本良介と結婚するな』というメッセージが届いたことがあった。

 ――あれ、神崎倫司だったの?

「……どうして、私に」疑問が口をついて出た。

 神崎倫司は低く笑って、顔を上げる。

 細く切れ長い桃花眼の奥に、私には読めない影が差していた。

「そりゃ決まってる。俺の凪っちゃんを、虎の口に落としたくない」

「……まあ、間に合ってよかった」

 続きを飲み込むように、そこで言葉を切る。

 彼が何を考えているのか、わからない。

 ただ、今は一秒でも早く帰りたかった。

 私はドアノブに手をかけた。

「今日はありがとうございました。この借りは、必ず――」

 ぱしっ。

 骨張った大きな手が、私より先にノブを押さえた。

「凪っちゃん。結婚の件、どう片付けるつもり?」

 唇を噛む。ノブに添えた指が止まる。

 半月しかない。

 具体的な手は、まだ固まっていない。けれど、これだけは確かだ。

 この結婚は、成立させない。

 私は目を逸らさず、潤んだ視界のまま言った。

「私の問題です。私が片付けます」

「強がり」

 神崎倫司は口元をつり上げ、悪い笑みを深める。

「手伝ってやろうか。あの宮本の男から、逃がしてやる」

 近づいた体温と、覚えのある匂いが鼻先を掠め、私ははっとして首を振った。

「いりません。自分でやれます」

「口だけは強いな」

 指先が、私の鼻先を軽くこすった。

「無理だったら――俺が略奪する」

「だってお前、自分で言っただろ。俺と一緒にいるって」

「……っ」

 冗談だと思っていた。

 なのに、その目が揺らがない。冗談の光が、どこにもない。

「俺は本気だ。忘れたとか言うなよ」

 神崎倫司は数歩下がり、ドアを顎で示した。

「行け。いい報せ、待ってる」

 頭の中が混乱したまま、私はドアを開け、足早に廊下へ出た。

 知らなかった。私の背中が消えるまで、部屋の奥から視線がずっと絡みついていたことを。

 ……

 神崎倫司視点

 カチャリ。ドアが閉まり、瀬川凪紗の背中が完全に見えなくなった瞬間、俺は堪えきれず笑った。

 今日は想定外の大当たりだ。

 部屋に飛び込んできた時の、ウサギみたいに怯えた顔。

 思い出すだけで胸がざわつく。

 さっきの俺が、どれだけ必死に理性を押さえ込んだか――誰にもわからないだろう。

 Y市で名の知れた、お行儀のいいお嬢さん。

 初めて見た時から、欲しいと思った。

 奪う方法はいくらでも考えた。

 だが彼女は真面目すぎた。視界にいるのは宮本良介だけ。下手に触れたら、怯えさせる。

 何があったかは知らない。

 ただ、彼女は宮本良介を恐れている。

 そして――この結婚は、もう成り立たない。

 仮に式を挙げるって言うなら、俺が必ずぶち壊す。

 瀬川凪紗が宮本良介に嫁ぐことはない。嫁ぐなら、俺のところだ。

 指先を転がす。

 彼女の残り香が、まだ皮膚に貼りついている。

 口元が勝手に緩んだ。

 ――逃げるなよ、凪っちゃん。

 逃げたら……俺は本当に略奪する。

 ドン、ドン。外でまた乱暴な音がした。

 ドアを開けると、宮本良介が戻ってきていた。

「……何の用だ」

 俺はドアを塞ぎ、室内を覗かせない。

 宮本良介は血走った目で怒鳴った。

「神崎倫司! 中に誰を隠してる!」

「フロントで聞いた。今日は女連れじゃなかったはずだ!」

 勘が鋭い。商売で互角なだけはある。

 だが遅い。遅れたら、もう取り返せない。

「だから何だ。女が向こうから来たらダメなのか?」

 宮本良介はノブを掴み、吠える。

「凪紗を隠してるのか! 言え、神崎倫司!」

 俺は鼻で笑った。

「宮本さんよ。吠えるだけで何ができる。だから瀬川さんに嫌われるんだよ」

「ほら、信じないなら入れ。探せばいい」

 一歩退いて道を開ける。

 宮本良介は突進し、部屋中をひっくり返した。

「凪紗! 凪紗……!」

 当然、いない。

 俺はゆっくり酒棚へ向かい、上等な赤を抜く。

 コルクを抜いて一杯注ぎ、ぐい、と飲み干してから言った。

「どうだ。見つかったか?」

 宮本良介は陰湿な目で睨みつけ、食い下がる。

「さっきの女はどこへ行った」

「帰った」

「……俺の女に興味でも?」

「神崎倫司……覚えてろ。必ず尻尾を掴んでやる!」

 怒鳴り込み、怒鳴り散らして去っていく。

 俺は気にも留めない。

「……ドア、ちゃんと閉めろ」

 バタン、と大きな音。

 室内がまた静まり返った。

 俺は携帯を取り、短く指示を飛ばす。

「俺の部屋の廊下。監視カメラのデータ、消しとけ」

「了解です」

 通話を切り、煙草に火をつける。

 煙の輪の向こうに、凪っちゃんの顔がちらついて――困った。もう会いたい。

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