第4章 止める
瀬川凪紗視点
「お嬢様がお帰りになりました」
瀬川邸へ戻る。目の前に広がる見慣れた壁の色も、庭へ続く小径も――すべてが懐かしくて、胸の奥が熱くなった。
出迎えた執事に、私は息を弾ませて尋ねる。
「お父様とお母様は?」
「旦那様と奥様は、お庭にいらっしゃいます」
執事が言い終える前に、私はもう走り出していた。焦る気持ちのまま、廊下を抜けて、そのまま庭へ――。
「お父様、お母様……!」
東屋にいた二人が、私の声に顔を上げる。母がやわらかく笑って、手招きした。
「凪紗、走らないの」
私は駆け寄って、そのまま母の胸に飛び込んだ。
けれど、その温もりに触れた瞬間――前世の光景が、嫌でも脳裏に浮かぶ。
事故のあと。血の匂い。歪んだ車体。
あれほど美しさを大事にしていた母が、見る影もなく――。
胸の奥に、どす黒いものが沈む。
宮本良介への憎しみが、さらに濃く、鋭くなる。
今生では、絶対にあんな悲劇を起こさせない。
宮本良介に、私の家族へ指一本触れさせない。
それから――瀬川香織。
あなたたち二人とも、覚悟して。私は絶対に逃がさない。
母は私の顔色を見て、冗談めかして首を傾げる。
「あらあら。うちの娘、どうしたの。外で嫌なことでもあった?」
「ううん。……ただ、会いたくなっただけ」
そう言って、私はぎゅっと抱きしめ直した。
それから父のほうへ回り込み、子どもみたいに甘える。
「お父様……」
成人してから、こんなこと滅多にしなかった。父の厳めしい顔に、わずかな驚きが浮かぶ。
「まったく、おまえは……いくつになったと思ってる」
「いくつでも、お父様の娘だもん」
私はそのまま父の胸に飛び込んだ。厚くて温かい腕。守られている、と身体が思い出す。
前世の自分の身勝手さが、喉の奥をきゅっと締めつけた。
目の縁が熱い。
前世の私は、宮本良介と結婚してから、すべてを捨てて「支える側」になった。
彼の事業のために、実家の人脈も資金も惜しまず差し出した。
父がそれを知ったとき、確かに言ってくれたのだ。
宮本家には気をつけろ、と。
なのに私は、宮本良介の甘い言葉に溺れて、父の忠告を鬱陶しいとさえ思った。
きっと父は、あの頃にはもう異変を察していたのに。
私が気づけなかったせいで、父と母は理不尽な災厄に巻き込まれた。
ごめんなさい。
でも、同じ過ちは二度と繰り返さない。
「今日はほんとにどうしたの?」
母が笑いながら私を引き離し、顔を覗き込む。そして父に向かって、軽く肩をすくめた。
「外でいじめられたのかしら。だったらあなた、うちの子の味方をしてあげてね」
父の威厳ある視線が、私の顔に落ちる。しばらく見つめたあと、短く頷いて――。
「……ふむ」
父は静かに茶を私の前へ押しやった。
私は湯気の立つ湯呑みを手に取り、父へ笑いかける。
「ありがとう、お父様」
それから母へ向き直り、まっすぐに言う。
「お母様。私、もう子どもじゃない。これからは私が二人を守る」
母は目を細め、嬉しそうに笑った。
「まあ……凪紗、大きくなったわね」
その言葉が終わる前に、遠くから女の声が割り込んだ。
「大きくなったところで、結局は娘じゃないの」
黒いファーを羽織り、胸元の開いた装いの女が、腰を揺らしながら近づいてくる。
伯母の石川雲だ。
その後ろには、二十代半ばくらいの男。
男の顔を見た瞬間、私の瞳がわずかに開く。
青木勝――伯母の甥。
……なぜ、今ここに?
前世でも確かこの頃だった。伯母が青木勝を連れてきて、父に会社での職を用意しろと迫ったのは。
要するに、うちの会社へ人間を潜り込ませたいだけだ。
祖父が亡くなったあと、家の事業は二つに分けられた。
伯父が迷わず選んだのは、当時勢いのあった製造業。
父に回ってきたのは、まだ立ち上げたばかりの新エネルギー事業だった。
それでも父と母が必死に立て直し、会社は持ち直し、やがて上場までこぎつけた。
一方、伯父の会社は右肩下がり。今では父の援助がなければ立ち行かない。
だから伯母は、いつもどこか棘のある言い方をする。
――今日の目的も、きっとそれだ。
そして、前世の青木勝はどうした?
会社に入ると、伯母との関係を盾に私腹を肥やし、私がそれを見つけて停職にした。
その腹いせに、今度は私との噂をばらまいた。
その噂が宮本良介の耳に入って、私は叱責され、家に閉じ込められた。
彼をなだめるために会社を辞め、家庭に戻って――それが、私の人生を壊す最初の一手になった。
私は二度と同じ道を歩かない。
青木勝を、会社へ入れさせない。
案の定、伯母は席に着くなり、含みのある目で私を一瞥し、母へ嫌味を投げた。
「娘なんて、どうせそのうち嫁ぐのよ。甘やかしすぎじゃない?」
母は笑みを崩さず、軽く返す。
「嫁いだって、私の子よ」
伯母の顔が引きつる。反論しかけたが、隣の青木勝を見て飲み込んだらしい。鼻で小さく笑い、父へ向き直る。
「廷海、今日は頼みがあって来たの」
父は冷たく言う。
「用件を」
伯母は青木勝を示した。
「この子、私の甥。卒業してからずっと暇でね。あなたの会社で職を用意してやってほしいのよ」
父は表情を動かさず、青木勝を一瞥する。眉間にわずかな皺。
私はそれを見て悟った。父も、この男を信用していない。
青木勝は見た目だけは整っている。
けれど、あの目が嫌だ。落ち着きなくきょろきょろと、私の身体を舐めるように追ってくる。
父が口を開く。
「青木勝、大学では何を学んだ?」
胸がひゅっと冷えた。
父がどれだけ嫌でも、伯母の顔を立てれば、入社は避けられない――。
止めないと。
私は何事もないふりをして、茶を二つ手に取った。伯母と青木勝のほうへ歩く。
私が近づいた途端、青木勝は父の質問すら忘れたように、目を釘付けにしてくる。
「伯母様、お茶をどうぞ」
一つを伯母の前へ置き、もう一つを青木勝へ差し出す。
青木勝は慌てて立ち上がった。
「僕が受け取りますよ」
その手が湯呑みに触れた瞬間――私は指の力を抜いた。
カタンッ。
湯呑みが床へ落ち、音を立てて転がる。
私は即座に声を張った。
「何してるんですか!」
青木勝は私と床の湯呑みを見比べ、顔を青くする。
「え……? ぼ、僕は何も……!」
「嘘。今、わざと触ってきた。私に嫌なことするつもりだったんでしょう?」
逃げ道を与えない。
私は机の上の茶を掴み、そのまま――彼の顔へ、ばしゃっと浴びせた。
