第5章 ツケを払わせる

「きゃっ!」

 青木勝が悲鳴を上げ、顔を押さえてよろめきながら数歩後ずさった。

「凪紗、何するんだ!」

 伯母さんが金切り声を上げ、慌てて青木勝に駆け寄って支える。

 彼女が青木勝の手を引き剥がすと、頬は赤く腫れ上がっていた。途端に顔を真っ赤にして怒鳴る。

「瀬川凪紗! 青木勝の顔、こんなに火傷させて……!」

「あら、火傷しちゃったの?」

 私はのんびり手を拭きながら言った。

「それは本当に申し訳ありません。執事、医者を呼んで。入院になるなら費用は全部、私のほうで持つから」

 控えていた執事が「かしこまりました」と答え、急いで電話をかける。

 伯母さんは怒りで肩を震わせながら、こちらを睨みつけた。

「どういうつもりなの!」

 私が口を開くより早く、伯母さんは矛先を父へ向ける。

「瀬川廷海! 見なさいよ、あなたの娘が何をしたか!」

 父は眉を寄せ、私を見る。

「凪紗、どういうことだ」

 私は悔しそうに唇を尖らせた。

「お父さま、さっき私、親切でお茶を運んだだけなの。でも、その隙に……私に触ろうとしたの」

 そう言って、手を差し出す。

「手、触られた」

 細く白い指が照明に浮かび、妙に生々しい。

 伯母さんがまだ何か言おうとした瞬間、母が私をさっと背中へかばい、玄関のほうを指差した。

「義姉さんだからって私も面子は立ててきたけど、その連れてきた男がうちの娘に手を出すなんて許さないわ」

 母の声は冷たく、鋭い。

「親戚のよしみで今日は大事にしない。今すぐその人を連れて出ていって」

 母が味方に立ってくれる姿が、あまりにも頼もしくて。

 タイミングさえ違えば、拍手していたところだ。

 伯母さんは顔面を引きつらせ、怒りを滲ませながら父を見た。けれど父は眉をひそめるばかりで、口を挟む気配がない。

 伯母さんはついに堪えきれず、声を震わせた。

「いいわ……いいわよ! あんたたち、寄ってたかって親戚いじめってわけね! 覚えてなさい!」

 そう吐き捨て、青木勝の腕を引っ掴むようにして、怒りに任せて出ていった。

 扉の閉まる音が遠のくと、母が私の手を取る。

「凪紗、大丈夫? 何もされてない?」

「大丈夫」

 答えながら、私は不安げに父を盗み見た。

 こんな稚拙な小細工、父には通じないかもしれない。

「止めたいことがあるなら、やり方はいくらでもある。お前は一番まずい手を選んだな」

 やっぱり見抜かれていた。

 私は唇をぎゅっと噛みしめる。上品な手ではない。それでも青木勝が会社に入り込むのを止めるには、これが一番手っ取り早かった。

「今後はよく考えろ。それと、自分を傷つけるような真似はするな」

 父はそう言って、湯気の立つ茶杯を私の前へすっと寄せた。

 胸の奥の重石が、ふっと軽くなる。

「……ありがとうございます、お父さま」

「もう。会社では厳しいくせに、家でも堅い顔して。ほんと、やんなっちゃう」

 母は苦笑し、私の肩を抱いた。

「うちの娘がやりたいこと、やればいいのよ。怖がらなくていい。何があっても、お父さんとお母さんがいるんだから」

 父は口にはしなかったが、小さく頷いてくれた。

 無条件に背中を押してくれる二人を見て、胸の奥が熱くなる。

 私は両腕を広げて二人を抱きしめた。

「お父さま、お母さま……大好き」

「まったく、この子ったら。ちょっと出かけただけで、帰ってきたら甘えんぼになっちゃって」

 母は口では呆れたふりをしたが、嬉しそうなのが隠せていない。

 そんな和やかな空気を切り裂くように、執事が部屋へ入ってくる。

「宮本様がお見えです」

「通して」

 母は言い、私を見てにこりとした。

「あなたたち、どうしたの? 一緒に出たのに、帰りは前後してたじゃない」

 胸の奥でざわつくものを押さえ込み、私は笑ってみせる。

「少し気分が悪くなって先に戻ったの。言いそびれちゃって」

 母は深く考えず頷いた。

 すぐに、ばたばたと急いだ足音。

 宮本良介が焦った顔で入ってくる。

 両親に挨拶を済ませると、彼は落ち着かない様子で私を見た。

「凪紗、どうしたんだよ。何も言わずに帰るなんて……何かあったのか?」

 その必死さに、胸の底から憎しみがせり上がる。

 この男が――両親を死に追いやり、私を海へ沈めた。

 今生では、きっちり返してもらう。

 テーブルの下で拳を握り、爪が食い込むほど力を込めて感情を封じる。

「ちょっと具合が悪くて、先に帰っただけ」

 宮本良介はすぐ近づき、覗き込む。

「大丈夫か? 医者には診てもらった?」

 手が私の額へ伸びてくる。

 その手を見ただけで、胃の奥がむかついた。

 私はさりげなく二、三歩引き、触れさせない。

「……海を見たくなかっただけ」

 宮本良介はきょとんとする。

「海辺の旅行、選んだのは凪紗だろ? なのに、なんで急に?」

 私は顔を上げ、彼の目をまっすぐ射抜いた。

 一語ずつ、噛みしめるように。

「今、気が変わったの。見たくない。ううん……これから先も、もう海は見に行かない」

 宮本良介は言葉を失う。けれどすぐに取り繕い、優しく頷いた。

「わかった。行かない。凪紗の言う通りにする」

 空気が険しくなったのを察して、母が間に入る。

「良介、座りなさい」

 宮本良介が私の隣に腰を下ろす。私は込み上げる吐き気を押し殺し、席を立たずに耐えた。

 宮本良介は上の空で父と二言三言交わしたあと、立ち上がって辞去しようとする。

「凪紗、送ってあげて」

 母は未来の婿を、少なからず気に入っている。

 宮本良介はそれだけ取り繕うのが上手い。端正な顔、謙虚で礼儀正しい態度、来るたび両親を機嫌よくさせる話術。母が見誤ったのも無理はない。

 疑われたくなくて、私は従うしかなかった。

「……行こう。送る」

 廊下を歩きながら、宮本良介は何度も振り返って私を窺う。私が黙ったままだと、ついに耐え切れず口を開いた。

「凪紗、どうしたんだ? 俺、何か悪いことした? 怒らせたのか?」

「いいえ」

 私が首を振ると、宮本良介はますます掴めない顔をする。

 少し考えたあと、軽い話題に逃げた。

「明日の競馬、忘れるなよ」

 その一言で、記憶が鮮明に蘇る。

 明日、確かに競馬がある。けれど宮本良介の目的はレースじゃない。狙いは名馬だ。

 前世、宮本良介は名馬を落札する場で海外投資家ジェイソンと繋がり、宮本家に資金を引き込み、Y市の新興勢力へと一気に駆け上がった。

 今生、その筋書きは渡さない。

 どう潰すか、頭の中で素早く段取りを組み立てながら、私は頷く。

「うん、覚えてる」

 門口まで来たとき、宮本良介は抱きしめようと腕を広げた。

 私はそこへ、わざとらしく咳を二つ落とす。

「ごめん。ちょっと具合が悪くて」

 宮本良介の手が空中で止まり、気まずい沈黙が落ちる。

 やがて彼は笑顔を作った。

「そうか。じゃあ、ゆっくり休め。明日迎えに来る」

 そう言って、親しげに私の頬を指でつまむ。

 その指先で、なぜか神崎倫司の手を思い出した。

 荒れた掌。ざらつく指紋。

 宮本良介の手より、ずっと――安心できる。

「じゃあ、帰るよ。凪紗も早く中へ」

 宮本良介が手を振る。

 私は知らなかった。

 背を向けた彼の顔が、氷のように冷え切っていたことを。

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