第2章 結婚式
結婚式場で、父は亡き母の象徴である水晶の薔薇を、祭壇の中央にそっと置いた。
薔薇の放つ光が式場の隅々まで届き、きらきらと乱反射する。まるで、母の魂がこのすべてを見守っているかのようだった。
エリノ姫は不機嫌に顔を曇らせ、その両目には怒りの光が揺らめいている。彼女の身から放たれる魔力は不安定に揺らぎ、周囲の燭台をカタカタと微かに震わせた。
「昨夜、夢を見たのだ」
不意に、父が口を開いた。その声には、悲しみが滲んでいる。
「サラーの魂が泣きながら、その苦しみと悲しみを私に訴え、私の不実を責める……そんな夢をな」
父はエリノ姫に向き直る。
「姫殿下。どうか、この水晶の薔薇に一礼を。サラーに敬意を示し、あなたと私が心から愛し合っているのだと、彼女にも示したいのです」
エリノの顔は、みるみるうちに蒼白になった。身体から発する魔力の波が、さらに激しくなる。
「この私に、芸女がりの下賤な女の遺物に礼をしろと申すのですか! 私は王族の血を引く姫ですよ!なぜ、あのような女に私が敬意を払わねばならぬのです!」
父はすぐには応じなかった。
燭光に照らされたその横顔は憂いを帯びて美しく、蒼い瞳は赤く潤んでいる。その身にまとう気配は、見る者の胸を締めつけるほどに悲痛な色を帯びていた。
これほど弱々しい父の姿は、見たことがない。母の葬儀の日でさえ、父は人前でこれほど深い悲しみを露わにはしなかった。
「姫殿下にとって、無礼な願いであることは承知しております。ですが、私は二人の妻に、どうか仲睦まじくあってほしい。さもなくば……」
エリノ姫の表情が、明らかに揺らいだ。父の驚くほど美しい容貌と、悲しみに沈んだ柔らかな雰囲気に、彼女も心を動かされているようだ。その表情から、いつもの傲慢さが少しずつ削ぎ落とされていく。
父はエリノを見つめ、その目尻を哀しみと決意で濡らしながら言った。
「あなたと魂の契約を結ぶくらいなら、私は死を選ぶ」
「なりません!」
姫は慌てて父をなだめた。
「あなたの生死を、私が気遣わぬとでもお思いで?あなたの魔法の才能は王国の至宝。あなたこそが、わが生涯で唯一の殿方なのですから」
父の眼差しが、突如として氷のように冷たく、そして決然としたものに変わった。
「ならば、サラーの魂に敬意を。彼女の思い出と共に生きていくと、そう誓ってください」
エリノは唇をきつく噛みしめ、不承不承といった様子でクリスタルフラワーに向かって一礼した。クリスタルフラワーがほのかに光を放つのを見届けて、ようやくその顔を上げる。
その瞬間、父の口元に氷のように冷たい笑みが浮かんだのを、私は確かに見た。
夜の帳が下りると、父はエリノに安眠の魔法をかけ、私を密かに邸宅の奥深くにある秘密の祭壇へと連れて行った。そこは魔法によって作られた小さな空間で、中央には母の遺品が安置されている。
「フィリア」
父は祭壇の縁で立ち止まり、震える声で言った。
「お母様の前で、ろうそくに火を灯してくれないか。お父様は……お母様に顔向けができないんだ」
「お父様……」
私は困惑して尋ねる。
「お母様は、お父様を愛していました。その魂が、お父様を傷つけるはずがありません!」
その瞬間、父の感情が堰を切ったように崩れ落ちた。涙がその頬を、とめどなく伝い落ちる。
「ああ、お母様は私を傷つけはしないだろう。だが、私にはもう、お母様に合わせる顔がないんだ……」
私が祭壇のろうそくに火を灯すと、父は魔法で、今日着ていたスーツとエリノのウェディングドレスを灰に変えた。燃え盛る炎に照らされ、父の目に歪んだ嫌悪の光が揺らめいている。その底知れない憎悪に、私は心の底から震え上がった。
翌朝、エリノがドレスの行方を尋ねてきた。その声には隠しきれない不満が滲んでいる。
「昨日のウェディングドレスはどこへやりました? あれは王室御用達の魔法製織部が手掛けた、貴重な品なのですよ」
「新しい魔法を試していた際に、誤って汚してしまってね。やむなく処分した」
父は平然と嘘をつき、その顔には一片の動揺も見せなかった。
「そもそも、この結婚式はあまりに粗末で簡素すぎますわ」
エリノは不満げに唇を尖らせる。
「私たちは王族の慣例に則った盛大な式を執り行い、すべての魔法貴族に祝福されるべきです。こんなふうに、慌ただしく内々で済ませるのではなく。……子供のことでなければ、父上もこんな形の結婚をお許しにはならなかったでしょうに」
父はただ微笑み、「いずれ必ず埋め合わせはする」とだけ言った。
だが、その瞳の奥の色は少しも変わらなかった。
その夜、父が窓辺に立ち、どこか遠い目をして思い出に浸っているのを見た。彼は私に、母との物語を静かに語り始めた。
母は花街で有名な芸女で、父は当時、名も実力もない見習い魔術師だったこと。母が長年蓄えた魔法クリスタルをすべて差し出してくれたおかげで、父は良い学院に入ることができたこと。そして二人は、魔法の神の御前で、一生を添い遂げ、いつかすべての人に祝福される夫婦になろうと誓い合ったこと。
「私が正式な魔術師になってから」
父は静かに言った。
「お母様に最高の結婚式を贈るため、何年もかけて貴重な材料を集め、一生忘れられない式を準備していたんだ」
父の声が、硬質になる。
「だがエリノは、お母様が花街の出身であることを理由に、魔術師の妻にふさわしくないと断じた。議会で私とお母様を無理やり引き離そうとし、私がそれに抵抗したせいで、魔術師の身分を剝奪されかけた。そしてお母様は……王都中の笑い者になった」
父は拳を握りしめる。
「彼女は王室護衛を率いて屋敷を取り囲み、お母様の出自をあげつらって、大声で侮辱したのだ」
「それでも私は結婚式を諦めなかった。何があっても添い遂げるという私の覚悟が、やがて周囲を認めさせた。だがそのせいで面目を潰されたエリノは腹を立て、自邸に引きこもったそうだ」
私は父を見つめる。
エリノが、母の時よりも盛大な結婚式を自分にも開いてほしいとほのめかした時、父の心はきっと冷たく、静かに燃えていたに違いない。
彼がエリノに、母以上の結婚式を許すはずがないのだ。
「彼女の願いを、私が受け入れることは永遠にない」
父は私の心を見透かしたかのように、低い声で言った。
「私が望むのは、ただ復讐のみだ」







