第3章 子供

書斎で、エリノ姫はお父さんの前に立っていた。

揺らめく燭光が、その横顔をことさらに美しく照らし出している。

「ヘルス、わたくしと、もう一度正式な結婚式を挙げていただきたいのですわ」

エリノ姫の声には、甘い期待が滲んでいた。

「王族にふさわしい、盛大な式を。……以前のような、みすぼらしいものではなく」

お父さんは、魔術師の紋章が刻まれた巻物から顔を上げると、冷ややかな視線をエリノ姫に向けた。

その指が、とん、とん、と黒檀の机を静かに叩く。

「国民がお前を何と呼んでいるか知っているか、エリノ」

お父さんの言葉は、凍てつく刃のように空気を切り裂いた。

「――不貞な淫婦、とな。すでにそう刻み込まれたお前が、今さら式を挙げたところで、再び笑いものになるだけではないか?」

姫の顔から、さっと血の気が引いた。

潤んだ瞳に、水晶のような涙が浮かぶ。

「何を泣くことがある」

お父さんは、なおも嘲りを込めた声で続ける。

「……まあ、夜伽の腕は確かだったからな。でなければ、私がここまでお前に夢中になることもなかっただろう」

「ヘルス!なんてことを仰るのです!」

エリノ姫はお父さんの胸に飛び込んだ。それは非難のようでもあり、どこか媚びるような仕草でもあった。

姫の身体が微かに震え、その身に宿る魔力が不安定に揺らぐ。お父さんは軽く手を振った。鎮静の魔法がヴェールのように姫を包み、荒ぶる感情が次第に凪いでいく。

お父さんは冷笑を浮かべた。

「忘れたか?侍女に命じて私に媚薬を盛ったのは、お前自身だろう。その時点で、いずれこうして嘲笑を浴びる覚悟はできていたはずだ」

「……もう、お怒りにならないで」

お父さんの口調はわずかに和らいだが、その瞳の奥にある氷は溶けていなかった。

「お前もまだ若い。いずれ、我が血を引く強力な魔力を持った世継ぎを産めば、そのときは相応の式を考えてやらんでもない」

「数ヶ月前に流産した子のことは、お気にも留めてくださらないのですね?」

エリノ姫は顔を上げ、その瞳を恨みがましく揺らめかせた。

「宮廷薬師は、あの子は強い魔力を秘めた男の子だったと……」

「運命の試練だ、エリノ」

お父さんは姫の金色の髪を無造作に払いながら、こともなげに言った。

「お前には魔法議会の席を与えてある。それだけでも、破格の栄誉であろう」

私はそっと、側面の扉から部屋を出た。

心の中は、様々な思いで渦巻いていた。お父さんの言葉は、一つひとつが巧妙に仕掛けられた罠だ。エリノ姫を、お父さんが望む復讐の道へと、着実に誘導していく。

数日後、お父さんが屋敷を留守にしている隙を狙って、エリノ姫が私の部屋へやってきた。

その指先には、危険な光を帯びた魔力が明滅している。瞳は、純粋な悪意に満ちていた。

「その目……忌々しい。あの賤しい母親とそっくりだわ」

姫は魔法で私の瞼をこじ開けると、きらめく睫毛を一本、また一本と、残忍に引き抜いていく。

私は歯を食いしばり、決して声が漏れないように耐えた。

「お前もいずれ、あの母親と同じ道を辿るのよ」

エリノ姫は、せせら笑う。

「賤しい娼婦にでもなるのかしら」

心の中で、私は誓った。

いつか必ず、今日の仕打ちを後悔させてやる、と。

「あら、泣いているの?」

エリノ姫は、心底軽蔑したように笑った。

「みっともない」

私は自分の弱さを呪った。

この姫の前で涙を見せることは、母様への裏切りに他ならない。

夜が更け、静寂が満ちる頃。私は母様の形見の装飾品をそっと撫でた。

これに触れていると、母様の魂と話せるような気がした。

(母様、会いたい……。今夜、夢に出てきてはくれませんか。ほんのひとときでいいから……)

時が経つにつれて、美しかった母様の面影が薄れてしまうのが怖かった。

私は水晶の薔薇に微かな記憶魔法をかけ、母様の顔と、エリノ姫への憎しみを、共に封じ込めた。

姫からの魔法による虐待を、お父さんに告げることはなかった。

お父さんは魔法議会の公務で多忙を極め、屋敷に戻ることは稀になっていた。

その地位は、一介の魔術師から大魔術師へ、そして今や、王国の至宝たる『王国の大魔術師』にまで上り詰めていた。

お父さんは以前にも増して社交的になったが、その内面は過去のどの時点よりも冷酷で、非情になっていることを私は知っていた。

復讐の炎が、かつて優しかったあの人を、完全にくい尽くしてしまったのだ。

――それから、四年。

エリノ姫は再び、強い魔力を宿す子を身籠った。

意気揚々と王宮へ里帰りしては、これみよがしに数多の魔法宝石や高価な法器を持ち帰ってきた。

そして屋敷に戻ると、また私を魔法でいたぶるのだ。

「本当に、あの賤しい屑母親にそっくりね」

傍にいた侍女のエオキが、姫を諌めた。

「姫様、今はどうかお鎮まりください。いずれ若様がお生まれになれば、大魔術師様のお心も……。姫様のお立場を危うくするようなことは、お控えになりませんと」

エリノ姫は満足げに私から離れると、愛おしそうに自分のお腹を魔法で撫でた。

だが、姫は知らない。

お父さんが、とうの昔に彼女を心の底から嫌悪していること。

そして、その腹の子が、決してお父さんの子ではないということを。

姫の寝台に出入りしていたのは、偽装魔法をかけられた物乞いや、処刑を待つだけの死刑囚なのだから。

お父さんは、母様を汚し、殺したごろつき共を執念の追跡の果てに見つけ出した。

そして、奴らの口から、エリノ姫が「あの女は身分の低い娼婦だ」と唆したのだと知った。

その事実を知ったお父さんが、書斎で二時間も呆然と座り込んだ後、まるで子供のように崩れ落ちて号泣する姿を、私は見てしまった。

母様の遺影の隣で、お父さんは私の目の前で禁忌魔法を使い、五人の男の魂を抜き取ってクリスタルに封じ込めた。

お父さんの魔法が、狂気の領域に踏み込んでいる。

でも、分かっていた。私もお父さんも、もう二度と、まともな魔法使いには戻れない。

魂を封じられた五つのクリスタルは、母様の遺影が飾られた部屋の天井から吊るされ、今も苦悶に満ちた微光を放っている。

お父さんの復讐は、まだ終わらない。

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