第1章
五年だ――ついに、見える。
安野香苗は目の前の包帯をそっと外した。視界いっぱいに飛び込んできたのは、精神病院の建物と、どんよりとした空気。
胸の奥が、熱く、ふわりと浮く。
江原司の出張は二か月に及んでいた。今日は帰ってきて、自分に会いに来る。
だからこそ、この「楽しい事」を伝えなくちゃいけない。
――目が治ったら、家に戻してやる。子どもにも会わせる。
彼は確かに、そう言ったのだ。
安野香苗は門の外へ出ようとした。街の景色を、この目で確かめたかった。
だがその瞬間――
「ん……ゆっくり……見られちゃう……っ」
甘ったるい女の喘ぎ声が、昼の空気を汚す。反射的にそちらへ視線を向けると、道路脇のポルシェが、がたがたと小刻みに揺れていた。
「……優しくして……見られちゃうよ!」
窓から、赤いハイヒールを履いた女の足が伸びる。太い男の手が、その太腿を容赦なく掴んでいるのが見えた。
「ここで誘っておいて? 見られたいんだろ」
――白昼堂々、精神病院の門前で車内行為。
さすがに目のやり場がない。なのに、その男の声が、妙に耳に残った。
スーツの肩、上下する影。激しさに合わせて車体が揺れ、二人は体位を変え続けているのが分かる。女は情趣のある下着のようなものを着ているが、すでに裂けて布切れになっていた。
昼間なのに、車の中なのに、ここまで飢えているのか。まるで車ごと壊れそうな勢いだ。
見えていなかった頃なら、AVの撮影でもしているのかと勘違いしたかもしれない。
それでも――どうしてだろう。中の声が、やけに馴染む。
安野香苗はこれ以上見ていられず、病院の敷地へ戻った。木陰のベンチに腰を下ろす。
江原司が来るたび、二人でここに座った。
ほどなくして、江原司が小走りに現れた。
「香苗。待ったか? 悪いな、最近会社が本当に忙しくて」
柔らかな声。いつも通りの夫の顔。
安野香苗は素直に首を振る。
「ううん。分かってる」
そう答えながら、彼の服の皺に気づいた。
夫婦で長い。江原司が強い潔癖症なのは知っている。こんな乱れ方は不自然だ。
――それに、このスーツ。さっき車で見た男のものと、よく似ている。
胸がきゅっと縮んだ。
安野香苗の表情の変化を、江原司は見逃さなかった。わずかに緊張が走る。だがすぐに、ふっと肩の力が抜ける。
(こいつは、見えない)
安野香苗は探るように言った。
「なんだか……香水の匂いがする。甘ったるい匂い」
明らかに女物だ。
江原司は軽く受け流す。
「来る途中で取引先と会ってさ。奥さん同伴だったんだ」
安野香苗の心が少し緩む。
考えすぎ……ただの偶然。そう思い込もうとして、無意識に服の裾をぎゅっと握った。
「先生が、回復が順調だって。目が見えるようになったら……ここを出られるよね。もう、ここで暮らしたくない」
江原司は眉間に皺を寄せたが、声は優しく断言した。
「もちろんだ。目が治ったら、俺たち三人でまた一緒に暮らそう」
安野香苗の口元に笑みが浮かぶ。
「じゃあ……翔太を連れてきてくれない? 会いたいの」
その瞬間、江原司の表情が硬直した。すぐに理由を作って繕う。
「最近、翔太は習い事が忙しくてさ。時間ができたら連れてくる」
安野香苗の手の力が、さらに強くなる。
何度目だろう。息子に会いたいと言うたび、何かしらの理由でかわされるのは。
見えなかった頃は声色で推し量るしかなかった。けれど今は――江原司の目の奥の「面倒くささ」まで、はっきり見えた。
精神病院へ送られた当初、江原司は毎日来た。抱きしめ、ここに閉じ込められる自分を可哀想だと心から痛んでくれているように見えた。
金田家の件が片付いていないから、外へ出れば「故意の傷害」で訴えられて刑務所行きになる。そう言われて――信じた。
安野香苗は尋ねた。
「次に来てくれるのは、いつ?」
「仕事次第だな。時間ができたら来る」
安野香苗は黙った。
彼が来る間隔は、毎日から、数日おきになり、いつしか――二か月に一度へ変わっていた。
恐る恐る口にする。
「……別荘に住んじゃだめ? 外に出ない。誰にも見られないようにするから」
江原司の眉間が一気に深くなる。
「香苗。お前を精神病院に入れたのは、俺が必死で手配したからだ。今さら余計なことするな。万が一があったらどうする。穴が開いたら、責任取れるのか?」
安野香苗は下唇を噛む。
「でも……」
でも、彼は「見つからないようにするため」だと言って、精神病院へ押し込んだ。別荘で外に出なければ同じじゃないか。
なのに、なぜ拒む。
「でもじゃない。今の形が、お前にとって一番いい」
苛立ちが声に混じった。
「当時、お前が人を傷つけたせいで、どれだけ世間が騒いだと思ってる。お前が罰を受けなければ金田家は絶対に引かない。江原家を潰したいのか?」
安野香苗の瞳の光が、少しずつ、少しずつ消えていく。
「……分かった」
江原司はほっとした顔をした。
もし安野香苗が別荘に来てしまえば、息子と会わせない言い訳が立たなくなる。
安野香苗は俯いた。睫毛が目元を隠し、感情は見えない。
彼の態度が変わっていくことぐらい、分かっていた。滞在時間は短くなり、スマホの通知は増え、彼女はいつも「仕事なら先に行って」と従順に送り出した。
支えていたのは息子の存在だけだった。
なのに、その息子にすら会わせない。
心が冷えていく、その最中――江原司が突然、彼女を抱きしめた。
「……なあ、香苗。もう少しだけ時間をくれ。もうすぐ、また一緒になれる」
頷こうとした、その瞬間。
江原司のスマホが、ぴこん、と震えた。
彼が画面を解錠する。
安野香苗の視界に、通知画面が滑り込んだ瞬間――心臓が底まで落ちた。
鏡の前で、情趣のある寝間着姿の女が自撮りしている。露骨で、生々しい。
その顔を、安野香苗は知っていた。
同父異母の妹。江原司の幼なじみ。――安野月子。
『さっき車で、あんまりよくなかった。今夜もう一回する? 新しいのいっぱい用意した』
血が、すうっと引く。手足の先まで凍りついたみたいに、身体が動かない。
息ができない。
――来る直前まで、車の中で。
相手は。自分の夫だった。
精神病院へ会いに来る数分前、別の女を抱いていた。
自分が見えないからこそ、平然と「良い夫」を演じられたのだ。
言葉にできない悲しみと、胃の底からせり上がる吐き気。
来る回数が減ったのも、間隔が伸びたのも――理由はひとつ。
安野香苗は小刻みに震えながら、唇を噛みしめた。
どうして。なぜ。
愛していた夫が、血のつながった妹と――そんなことが、あり得るのか。
