第156章

『いらない』

 安野香苗の声はひどく小さかった。翡翠には目も向けず、箱をそっと押し返す。

 大げさな仕草じゃない。なのに、胸の奥に薄い棘が刺さったみたいに、妙に居心地が悪い。

『江原司。私たち、もう離婚したの』

 香苗は翔太の手を引き、彼を避けるように脇をすり抜けた。

『それは江原家のものよ。私たち母子には関係ない。……もう来ないで』

 江原司の手が、宙で固まったまま動かない。香苗の背中を見つめ、追いかけたいのに、足が鉛みたいに重かった。

 ぱたん、と車のドアが閉まる。黒いベントレーが目の前を滑るように通り過ぎていく。

 江原司はその場に立ち尽くし、空が完全に暗くなるまで動け...

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