第3章
この世でもっとも残酷な罰があるとすれば――それはきっと、母親に、我が子が自分を母と認めない現実を「目の前で」見せつけることだ。
しかも、その子が別の女を母親として慕っている。
いちばん許せないのは、相手が仇だということ。
安野月子の母親は、香苗から父を奪った。
そして今度は娘が、香苗から夫と息子まで奪おうとしている。
安野香苗は、胸の奥が裂ける痛みを噛み殺した。
このクズ男と薄汚い女に代償を払わせられないのなら――自分は、人として生きている意味がない。
そのとき、江原司がまた近づいてきて、背後から抱き寄せようとする。
「香苗、先に二階へ行って休め」
香苗はその腕をすり抜け、何も答えずに寝室へ向かった。
背中越しに、江原司の視線が刺さる。
彼は、香苗がさっきのことでまだ怒っているのだと思っているのだろう。
ドアを押し開けた瞬間、息が止まった。
――ここにあったはずの「自分の生活」が、跡形もなく消えている。
ハンガーに掛かっているのは、安野月子と江原司の上着。
香苗が心を込めて選んだ飾りは一つもなく、代わりに目につく場所すべてに、二人のツーショット写真が置かれていた。
ベッドサイドには、安野月子の扇情的な写真。
レースのショーツまで、無造作にベッドへ投げ捨てられている。
かつて自分が整えた、温かい避難所。
それがいまは、二人の不貞の「巣」になっていた。
胃の奥が、ぐわりとせり上がる。
香苗は堪えきれず洗面所へ駆け込み、吐いた。何度も、何度も。喉がひりついて息ができなくなるほど。
ふらふらと寝室へ戻ると――さっきまでの痕跡は、すでに片づけられていた。
江原司が、何事もなかったかのように。
彼が軽く咳払いをする。
「香苗、どうした?」
探るような口調。
香苗は冷たく「うん」とだけ返した。
「ちょっと体調が悪いだけ」
ベッドの上のあれこれを見て吐いた、なんて言うつもりはない。
言えば、江原司は「見られたのか」と疑い始める。
江原司はじっと香苗を見つめ、それから声を落とした。
「戻ったばかりなんだ。休め。俺は仕事が残ってる。何かあったら家政婦を呼べ」
香苗は疲れたように頷くだけだった。
今は、一秒でも江原司の顔を見たくない。
窓辺に腰を下ろしてしばらくすると、江原司が後ろ庭へ出ていくのが見えた。
なぜだか胸騒ぎがして、香苗もそっと後を追う。物陰に身を隠し、息を殺す。
庭では、江原司と安野月子がぴたりと寄り添っていた。
不満げに唇を尖らせ、安野月子が言う。
「なんで急に連れ帰ったの? 約束したじゃない。あの女は精神病院で一生終わらせるって。外と遮断して、金田家の件がまだ片づいてないって思わせて、そこで大人しくさせるって」
――頭の中で、どん、と音がした。
金田家の件は、もうとっくに終わっている。なのに江原司は、面会のたびに「まだ探されてる」「片づいてない」と言い続けた。
精神病院の中では、誰も余計なことは話してくれなかった。
テレビもない。スマホなんて論外。外の情報は一切、入ってこない。
江原司が作った牢獄で、香苗は五年を過ごしたのだ。
だから、何も知らなかった。
香苗は爪を立てるように拳を握り、さらに耳を澄ませた。
江原司が苛立ちを隠さず吐き捨てる。
「誰が、急に目に光が戻るなんて思う。……また手を考える。もう一回、送り戻す」
安野月子が低く笑い、毒の滲む声で続けた。
「じゃあ、前と同じ薬ね。量が足りたと思ったのに。あれで一生見えないはずだったのにさ。たった五年で見えるとか最悪。最初から一袋全部、ぶち込んどけばよかった」
香苗は目を見開いた。
奥歯を噛みしめすぎて、口の中に鉄の味が広がる。
――自分の失明は、毒で。
安野月子に、毒で潰された。
精神病院へ送られたのも、この二人の仕業……。
骨の髄まで搾り取って、息の根を止めたいほど憎んでいるのだ。
怒りで身体が震え、今にも刃物を掴んで飛び出してしまいそうだった。
いつ、どうやって部屋へ戻ったのかも覚えていない。
心臓の周りを、憎しみがぴったりと覆っていた。
庭では江原司が安野月子から身を離す。
「もう戻れ。俺は上に行く。あいつに付いてないと。変なことに気づかれたら面倒だ」
そう言って立ち去ろうとした、その腕を安野月子が掴んだ。
そして、男の手を自分の胸元へ押し当てる。
媚びた声。
「夜、私と寝ないの?」
江原司の喉仏が、ごくりと動いた。視線が二階へ向く。
次の瞬間、彼は安野月子を抱き寄せ、庭の奥へ消えていった。
香苗はカーテンの陰で、その様子を見下ろしながら冷えた笑いを噛み殺す。
駐車場みたいな場所でも平気でやってたくせに、いまさら隠す気になるなんて。
夜になっても、江原司も安野月子も戻らなかった。
屋敷にいるのは家政婦が一人だけ。何か言い含められているのか、聞いても何も教えてくれない。
そのとき、廊下の先――翔太の部屋から幼い声がした。
「ママ……のど渇いた……ママ……」
香苗は反射的にぬるい水を注ぎ、部屋へ入る。できるだけ優しく。
「翔太。お水、持ってきたよ。飲む?」
翔太は眠たげに目を開け、ゆっくり身体を起こす。
香苗は背中に手を添えた。
「ゆっくりでいい。焦らなくていいよ」
その一言で翔太の意識がはっきりした。
そして香苗の顔を見るなり、表情が凍りつく。
「いらない!」
ぱんっ、と手が払われ、コップが床に落ちて砕けた。
割れる音が、香苗の心が砕ける音に重なる。
「なんでまだうちにいるの? あなたは僕のママじゃない」
目の奥が熱い。だが泣くわけにはいかない。
香苗は喉を絞るように言った。
「翔太、私は……」
「変な女! 早く出てって! 見たくない! 出てけ!」
翔太は怯えと警戒でいっぱいの目を向け、声を張り上げた。
「ママ! ママどこ!?」
香苗は一歩も近づけなかった。近づけば、もっと怯えさせる。
声が震える。
「……翔太。私は、本当にあなたのママなの」
そして、必死に繋ぎ止めようとする。
「十月十日、お腹で育てて産んだ。右腕に梅の形の痣があるでしょう」
香苗は出産して三日目で突然、目を失った。
命がけで産んだのに、我が子を見られたのは三日だけ。その後は、闇だけだった。
その言葉に、翔太の表情がわずかに揺れる。
今は長袖で、痣は見えない。
香苗はそっと手を伸ばす。壊れそうな温度を宿した目で。
「……信じて。ね?」
翔太は迷いに満ちた顔で、香苗の手を見つめた。
香苗は、ひとつずつ、丁寧に言葉を重ねる。
「あなたの顔、私に似てる。鼻も、目も。鏡で見てみて」
「ママが入院してたのはママのせい……でも、これからはずっとそばにいる」
翔太が、ためらいながら手を伸ばしかけた――その瞬間。
ドアが勢いよく開き、安野月子と江原司が飛び込んできた。
安野月子は血相を変えて翔太を抱きしめる。
「翔太、大丈夫? ママがいるよ。怖くない、怖くない」
翔太の意識が一気に安野月子へ戻り、小さく頬をすり寄せた。
「ママ……悪い夢見た。一緒に寝て」
無意識の依存。
香苗はその場で拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
――わざとだ。
安野月子は、わざと邪魔をする。
次の瞬間、江原司が香苗の腕を掴み、強引に廊下へ引きずり出す。
振りほどこうとしても抜けない。振り返って翔太を見ようとした瞬間、部屋の扉が安野月子の手で、ばん、と閉められた。
江原司が苛立ち混じりに言う。
「昼も言っただろ。翔太には時間が必要なんだ。突然母親がもう一人出てきたって、受け入れられるわけない」
香苗は全力で腕を振りほどき、目の奥に沈めていた憎しみを滲ませる。
「……『もう一人の母親』って、どういう意味?」
