第6章
江原司に――失望する資格なんて、どこにある?
裏切られて、傷つけられたのは私だ。失望するのは、私のほうだ。
「私じゃない。押してない。……目だって、ろくに見えてないのに、どうやって人を突き飛ばすの?」
安野香苗は唇をきゅっと結び、強がっているのに今にも壊れそうな顔をした。
「つまり、私のこと信じてないってこと? 私が精神病院で……あんなに長い間、必死に耐えてたのに。やっと戻ってきたら、息子は別の女を『お母さん』って呼ぶのよ」
喉の奥がひりつく。
「江原司。あなた、当時こう言ったよね。金田家の人間に見つかったら危ないから、私を精神病院に入れたって。でも――もう五年よ? 金田家の件、まだ片づいてないっていうの?」
可哀想なふりなんて、安野月子だけの専売特許じゃない。
私だって、やろうと思えばできる。
けれど、江原司相手にそんな手を使うのは――癪だった。
金田家の話を出した瞬間、江原司の表情がわずかに揺れた。ほんの一瞬。けれど確かに、目が泳いだ。
(……今の、動揺?)
なぜ急にそんなことを、とでも言いたげな顔。
私が何かを掴んだのでは、と疑っている。
江原司が言葉を探している隙に、安野香苗はくるりと踵を返し、そのまま二階へ上がった。
「司!」
背後で、安野月子の甲高い声が飛ぶ。悔しさが滲んでいた。
「私、あの人に突き飛ばされて床に転がされたのに。なんで、何も言ってくれないの? 私の味方でしょ!」
安野月子が拳を握って江原司の胸をぽかぽかと叩く。
だが江原司の目には、苛立ちとは別のもの――疑いが浮かんでいた。
「月子。先に部屋で休め」
「まだ言いたいことが――」
食い下がろうとした安野月子は、江原司の目に射抜かれて言葉を飲み込む。顔が強張り、唇を尖らせたまま、渋々部屋へ引き返していった。
江原司は二階を見上げる。
壁に飾られていた家族写真は、すでに外されていた。
……少し考えた末、江原司も階段を上がり、寝室の扉を押し開ける。
中では、安野香苗がベッドの縁に腰掛けたまま、目を赤くしてぼんやりしていた。
物音に気づくと、彼女はわざと背を向ける。
「なに? 今度は安野月子の『気晴らし』でもしに来たの?」
拗ねたような口調。小さな棘。
それが、江原司の胸のどこかを揺らした。
――付き合い始めた頃。
香苗が時々だけ見せていた、あの表情。
あの頃は確かに、可愛いと思った。
確かに、情もあった。
江原司の中の疑いが、ふっと薄れる。
彼は香苗の前に膝をつき、正面から覗き込んだ。
「香苗。さっきは俺が短気だった。……悪かった。怒るな」
「江原司」
香苗の肩が微かに震える。壊れやすい蝶みたいに。
「あなたは私を五年も精神病院に閉じ込めた。毎日、地獄だった。なのに、やっと戻ってきた今も……昔みたいに、何も教えてくれないの?」
江原司は、彼女が折れたと感じたのだろう。男の自尊心が満たされ、声の角が取れる。
「香苗。全部、お前を守るためだ。金田家に見つかったらどうする」
「私は気をつける。……お願い、せめて少しだけ外の空気を吸わせて」
香苗は眉を寄せ、哀れみを誘う顔を作る。白い肌は薄い光にも透けそうで、その仕草は月子よりもよほど絵になった。
江原司の瞳に、欲がじわりと滲む。
安野香苗は胃の奥の吐き気を押し殺し、さらに甘えた声を足した。
「ねえ、お願い……。私、この別荘に一人で、何もないまま閉じ込められてたら、息が詰まって死んじゃう。もう何年も『閉じ込められる』のは嫌なの」
――本当は、ここまで言いたくない。
でも、別荘の周りに人を張り付かせているのは江原司だ。こうでもしないと、外へ出る道が開かない。
「……分かった」
ようやく江原司が折れた。
「ただし、遠くへは行くな」
安野香苗はほっと息を吐き、柔らかく笑う。
「ありがとう。じゃあ、前のスマホも――」
言い終えるより先に、江原司が背後へ回った。
ポケットから何かを取り出す気配。
次の瞬間、ひやりとした金属が首元に触れる。
江原司は手慣れた動きで、ネックレスを留めた。
「スマホは大崎に持たせる。……これ、好きか?」
指先が、絹みたいな長い髪をなぞる。優しいふりをした撫で方。けれどその眼差しは、どこか値踏みするように冷たい。
安野香苗は、掌に残る熱にぞくりとした。
それでも今は――演じるしかない。
「……好き」
そう答えながら、視線は首元のネックレスに落ちる。
妙に見覚えがある。
数秒遅れて思い出した。
あれは高級ブランドの新作で、ブレスレットの購入特典として付いてくる『おまけ』だ。
そして、そのブレスレットは――安野月子が腕にしていた。
正規品は愛人に。
妻に渡すのは、景品。
胸の奥で、氷がきしむみたいな音がした。――滑稽すぎる。
香苗が従順に見えたのだろう。江原司は満足げに口元を緩め、髪を弄ぶ指が、さらに不躾に動き出す。鎖骨を辿り、顎先をつまみ上げる。
眯めた目で、顔を検分するように。
五年という時間は、香苗の美しさをほとんど削っていない。
ただ――瞳から光だけが消えた。磨かれていない真珠みたいに、くすんでいる。
だが江原司は、昔の生き生きした香苗より、今の伏し目がちで従う香苗のほうが好みだった。
彼の目がさらに暗く濃くなる。
熱を含んだ息が耳元へ落ちた。
「香苗……翔太に、弟か妹を作らないか?」
ぞわっ、と首筋に鳥肌が立つ。
安野香苗は吐き気を噛み潰しながら、視線を落とした。
「……えっと。さっきお風呂で気づいたんだけど、今日ちょうど生理みたい」
立ち上がって、男の手から逃げる。
江原司が眉を寄せた。
「生理? ……この時期じゃなかったはずだが」
覚えていることが、逆に気味が悪い。
香苗はすぐに理由を繕う。
「入院中ずっと薬を飲んでたでしょ。何種類か、周期に影響するのがあって……」
「本当か?」
疑い切れない顔のまま、江原司のスマホが鳴った。
通話に出た瞬間、受話口から焦った声が飛び込む。
「江原様。市内の大病院の医療機器契約、全部……藤原グループに持っていかれました」
「……は?」
江原司の瞳孔が揺れ、顔色が一気に沈む。眉間がきつく寄った。
「どういうことだ。契約の詰めは半月前に終わってただろ」
「藤原京也です。今日、帰国したその足で藤原グループへ入って……着くなり複数の病院長を呼びつけたらしくて。病院長たちは藤原グループを出た直後に、次々うちとの契約を破棄して――」
相手の説明は続く。
だが江原司の耳には、ぶうん、と不快な耳鳴りだけが残った。
スマホを握る指が白くなる。奥歯がぎり、と鳴った。
眼底で火が燃え上がる。
「藤原京也……っ!」
低く唸り、次の瞬間。
「――上等だ!」
抑えきれない怒りが爆発し、江原司はスマホを床へ叩きつけた。
がしゃんっ、と乾いた音。画面が砕け、部品が散る。
床に転がる残骸を見下ろしながら、安野香苗の胸の奥に、ほんのわずかな快感が差し込んだ。
彼が狂ったような顔で「藤原京也」と繰り返すたび、香苗の眉がわずかに動く。
鍵を差し込まれた古い箱みたいに、封じていた記憶が次々とこじ開けられ――胸の中から、ざわざわと溢れ出してきた。
