第1章
「近藤時弥、包囲された。武器を捨てろ!」
周防浅奈は辛うじて右目を開けた。外から聞こえるサイレンの音が、鼻の奥をツンと刺激する。
警察が、ようやく彼女を見つけてくれたのだろうか。
ベッドから降りてドアを開けようとしたが、身体の下の皮膚がシーツと癒着しており、少し動くだけで激痛が走る。
近藤時弥と「駆け落ち」をしてから三ヶ月。
愛していると騙り、彼は彼女を競売にかけるただの商品として連れ去った。最後の金を得るための道具として。
子宮を摘出され、舌を切られ、臓器はサディストたちのコレクションとなった。
客の暴力で片目を失明し、両足は折られ、乳房の半分さえも切り取られた……。
それでも彼女は死ななかった。魔の手から逃れる機会を、執念だけで待ち続けていたのだ。
バンッ!
彼女は全身の力を振り絞ってベッドから転がり落ちた。沿岸警備隊の呼びかけを聞きながら、這ってでも外へ出ようともがく。
たとえ死んでも、近藤時弥の罪を暴いてやる!
「クソッ、ふざけやがって!」
ドアが乱暴に押し開けられ、近藤時弥の怒号が響く。
「急げ、このアマを海に捨てろ! 捕まってたまるか!」
周防浅奈は左手を伸ばし、近藤時弥のズボンの裾を死に物狂いで掴んだ。灰色のスラックスに、鮮血の手形が焼き付く。
近藤時弥は周防浅奈の顔面を容赦なく蹴り飛ばした。
「この売女が! お前のせいで居場所がバレたんだぞ。チッ、近藤永一の野郎、狂犬みたいに嗅ぎつけやがって!」
「何突っ立ってんだ、さっさとやれ!」
周防浅奈の指は一本ずつ後ろへへし折られ、男たちに担ぎ上げられた。
「近藤時弥、こんなことしてただで済むと思わないで。近藤永一があなたを許さない!」
必死に抵抗したが、言葉が終わらぬうちに、彼女は冷酷にも海へ投げ捨てられた。
ザブンッ!
氷のような海水が、一瞬にして意識を覚醒させる。
周防浅奈の瞳は絶望に染まり、涙が海水に溶けていく。
もう、助からない。
それが最後の思考だった。
薄れゆく視界の端に、近藤永一の姿が見えた気がした。甲板から彼女を見つけ、躊躇なく海へ飛び込んでくる姿が。
やっと、見つけてくれた。
彼は、助けようとしてくれているのか……。
最初から最後まで、心から彼女を想ってくれていたのは彼だけだった……。
周防浅奈は後悔に胸を引き裂かれそうになった。彼を抱きしめたい。
だが、もう手遅れだ。
海水が肺を満たし、致命的な窒息感が襲う。周防浅奈は無意識に手を伸ばし、何かを掴もうとあがき……。
ガシャン!
何かをひっくり返した音がした。
周防浅奈は弾かれたように目を開け、荒い息を繰り返した。
「浅奈、型取りしないとバレちゃうでしょ。少し我慢できない?」
目の前には、親友である木島若凪の怒った顔があった。
木島若凪はため息をつく。
「はいはい、お嬢様は痛がりなんだから。じゃあメイク始めるわよ」
木島若凪は周防浅奈の顔からシリコンを剥がし、また何かを塗りたくり始めた。
数分後、周防浅奈は鏡の中の自分を見て呆然とした。
紫のスーツに緑のシャツ、白塗りの顔に裂けたような真っ赤な口紅、そしてパンダのような隈。
まるで映画『バットマン』の悪役、ジョーカーそのものだ。
隣の木島若凪を見れば、黒のボディスーツで豊かな胸を強調し、精巧なメイクに猫耳までつけている。その姿が、周防浅奈のピエロ姿をより一層滑稽に引き立てていた。
その瞬間、周防浅奈は理解した。
重生したのだ。三年前に戻ったのだと。近藤永一との婚約パーティーの日に。
少し前、両親が交通事故で他界した。葬儀の席で、近藤永一は両家の婚約を履行するよう求めた。拒否すれば周防家への商業的支援を打ち切り、祖母の高額な医療費も支払わないと脅して。
周防家は破産寸前で、両親の死が追い打ちをかけていた。
近藤永一の脅迫と取締役会からの圧力に屈し、周防浅奈は頷くしかなかった。
だが、心から嫁ぐ気などなかった。彼女が愛していたのは近藤時弥で、この期に及んでも彼との駆け落ちを画策していたのだ。
しかし、近藤時弥こそが真のクズだったとは思いもしなかった。彼はとっくに木島若凪と肉体関係を持ち、周防浅奈のことなど愛してはおらず、ただ利用していただけだったのだ。
前世での惨殺を思い出し、周防浅奈は拳を固く握りしめた。瞳の奥の憎悪はもう隠せない。
彼女の異変を感じ取り、木島若凪が慌てて口を開く。
「浅奈、安心して。近藤時弥が手引きしてくれるわ。その格好なら、近藤永一も絶対に気づかない」
目の前のセクシーで艶めかしい木島若凪を見て、周防浅奈は心の中で冷笑した。
前世、婚約を嫌がる周防浅奈に、木島若凪はこの策を授けた。婚約を承諾するふりをして、パーティーでコスプレパフォーマンスを要求しろと。
木島若凪がメイクで変装させ、役者たちに紛れて会場を抜け出す計画だった。
本来、木島若凪は周防浅奈がいなくなった後、傷心の近藤永一に取り入り慰めるつもりだったのだ。
だが、周防浅奈がホテルを出る前に、近藤永一は企みに気づいた。
激怒した彼はその場で彼女を犯し、それ以来三年間、彼女を監禁した。
その三年間、木島若凪が時折別荘に来て話し相手になり、たまに近藤時弥を招き入れてくれた以外、誰とも会えなかった。
彼女はこの二人を家族だと思い込み、暗闇の中の唯一の光だと信じていた。
そうでなければ、あんなにも惨めに騙されることなどなかったはずだ。
近藤時弥と木島若凪が欲しかったのは金であり、彼女を利用して近藤永一を潰すことだった。
それなのに彼女は愚かにも、自ら彼らの手の中に飛び込み、日夜拷問され、最後は海で溺死した……。
耳元で囀る木島若凪の声を聞き流し、周防浅奈は立ち上がった。
「トイレに行ってくる」
「いいけど、急いでよ」
木島若凪は彼女の異変に気づかず、胸元の服をさらに引き下げた。
周防浅奈は足早にメイク室を出て、トイレへと向かった。
今すぐ対策を考えなければならない。近藤永一を怒らせず、かつ近藤時弥たちに怪しまれない方法を。
会社はまだある。お祖母ちゃんも生きている。まだ間に合う。
だが、トイレのドアを開けた瞬間、女性の悲鳴が聞こえた。
周防浅奈はそこで初めて、自分が男装していることを思い出した。確かに女子トイレには不向きだ。
慌てて謝罪し、隣の男子トイレへと入る。
幸い誰もいない。窓辺に駆け寄り下を覗き込む。三階の高さは大したことはないが、飛び降りて無傷で済む保証はない。
飛び降りて賭けに出るか、人混みに紛れて逃げるか迷っていると、個室から微かな荒い息遣いが聞こえてきた。
目を見開いて注視すると、誰かが床に倒れているようだ。
数秒の葛藤の末、周防浅奈は個室のドアを押し開けた。
酔っ払いなら、服を奪って変装し、脱出できるかもしれない。
だが、床にいる人物を見て、彼女の震えが止まらなくなった。
なんと、近藤永一だったのだ!
顔は紅潮し、ネクタイは緩く首にかかり、シャツのボタンがいくつか外れて逞しい胸板が露わになっている。
呼吸は荒く、異常に苦しそうだ。
周防浅奈が踵を返して逃げようとした瞬間、手首を強く引かれ、彼女は近藤永一の懐へと倒れ込んだ。
熱く馴染みのある吐息が首筋にかかり、周防浅奈の身体が強張る。全身の毛が逆立つようだ。
前世の監禁の記憶がフラッシュバックし、震えが止まらない。
近藤永一は辛うじて上半身を起こすと、彼女の肩を抱き寄せ、命令口調で言った。
「俺を部屋へ連れて行け。302号室だ」
周防浅奈はようやく我に返った。
「薬を盛られたの?」
近藤永一は鼻で笑った。周防浅奈は彼を突き飛ばそうとしたが、190センチ近い巨体を振りほどくことなど不可能だった。
外から足音が聞こえる。周防浅奈は覚悟を決め、近藤永一を連れてトイレを出た。
角を曲がったところで、木島若凪の声が聞こえてきた。
「近藤様があの水を飲んだのは間違いないわね?」
「はい、木島さん。すべて仰せの通りに」
ウェイター姿の男が媚びへつらいながらカードキーを渡す。
「近藤様の部屋は302です」
「よくやったわ」
木島若凪は男に封筒を渡し、部屋の方へと歩き出した。
周防浅奈の脳裏に閃くものがあった。彼女は死に物狂いで近藤永一を支え、階下へと向かう。
歩きながら、近藤永一のズボンのポケットを探り、車のキーを見つけ出す。
近藤永一はされるがままで、体重の半分を彼女に預け、まるで抱きしめているかのようだった。
だが周防浅奈には彼を気遣う余裕などない。前世で理解できなかったことが、ようやく繋がったのだ。
近藤永一は陰湿で奇妙な性格だったが、彼女に何かを強制したことは一度もなかった。
当時、両親を亡くし、祖母は重病、無理やり婚約させられ、最後には強姦された。彼女の心には近藤永一への憎しみしかなく、なぜ彼がそんな暴挙に出たのか考えもしなかった。
今ならすべてわかる。
近藤永一は木島若凪に薬を盛られたのだ!
だから前世でホテルを出ようとした時、木島若凪は迎えに来なかったのだ。近藤永一の部屋で待ち構えていたからだ。
ピピッ。
車のロックが解除される音が響く。周防浅奈は苦労して近藤永一を彼のカリナンの後部座席に押し込み、自分は運転席に座ろうとした。
「免許もないのによく運転できるな」
近藤永一の声が聞こえ、周防浅奈が振り返った瞬間、片手で抱き上げられ、彼の膝の上に座らされた。
「あなた!」
周防浅奈は慌てて口をつぐんだ。
この化け物のような姿なら近藤永一も気づかないはずだが、声を出せば終わりだ。
どう逃げようかと思考を巡らせていると、唇を近藤永一に乱暴に噛まれた。
痛みに口を開けた瞬間、近藤永一の舌が侵入し、抵抗する隙も与えられない。
周防浅奈は驚愕し、心臓が止まりそうになった。
こんな姿の自分に、近藤永一はキスできるというのか?
本当に気づいているのか、それとも薬のせいで人間なら誰でもいいのか?
周防浅奈は近藤永一の胸を強く叩いた。近藤永一は微かに眉をひそめ、ようやく彼女を解放した。
「周防浅奈、何のつもりだ?」
「……バレてたの?」
周防浅奈の声は掠れ、信じられないという色が目に浮かぶ。
近藤永一は彼女の唇についた口紅を指で拭い、冷ややかに笑った。
「灰になっても、お前のことはわかる」
彼は周防浅奈を抱きしめ、蠱惑的で、どこか哀願するような声で囁いた。
「いい子だ、助けてくれ。頼む」
