第4章

 光の視点

「赤ちゃんは無事なの?」

 目を開けると、真っ青な顔をした颯斗の姿が視界に飛び込んできた。彼は私の手を握りしめ、その関節は白く浮き出ている。

「赤ちゃんは元気ですよ」傍らで私の傷口を処置しながら、看護師が声をかけてくれた。

「銃弾はただの擦り傷で、急所は外れていますから」

 私は安堵の息を漏らし、そっと目を閉じた。少なくとも、お腹の子は無事だ。

「お父様は胃洗浄に向かわれました」看護師は言葉を続ける。

「今は容態も安定しています。お母様は外で待機されていますよ」

 私はただ小さく頷き、何も答えなかった。

 看護師が病室を後にすると、空間には私と颯斗だけが残された。彼はベッドの傍らに腰を下ろし、私の手をきつく握りしめている。

「最初は信じられなかったんだ」不意に彼が口を開いた。その声は酷く掠れている。

「君のご両親が六回も結婚式を台無しにしたなんて、てっきり大げさに言っているだけだと思ってた」

 彼は私を見つめた。その瞳には深い罪悪感が揺らめいている。

「今になってようやく分かったよ。君がこの何年間、どれほどの重荷を背負ってきたのか。光、本当にごめん」

「颯斗のせいじゃないわ」私の声は震えるほど弱々しかった。

「私だって、逆の立場なら信じなかったもの」

「でも、僕は信じた」彼の手の力がさらに強まる。

「この目でしっかりと見たんだ。お義父さんが指輪を飲み込み、お義母さんが銃で脅してきたのを……あれは本当に狂ってた」

 彼は大きく深呼吸をし、私の目を見つめ返した。

「それでも、僕は君から離れない。君のご両親がどれほど狂気じみていても、これから何が起ころうとも――絶対に離れない」

 堪えきれず、私の目から大粒の涙が溢れ出した。

 村田は私のもとを去った。陽斗も私を置いていった。六人の元婚約者たちは、皆私から離れていった。

 彼らは全員私を愛していると言ってくれたが、両親の狂気を前にして、最後は皆諦めることを選んだのだ。

 だけど、颯斗は違う。

 これほどの異常事態を経験し――脅され、襲われ、あわや銃で撃たれそうになったというのに――彼はまだ、離れないと言ってくれている。

「ありがとう……」私は声を詰まらせながら呟いた。

 しかし、今回ばかりは私自身がそんな我儘を許せなかった。

 これ以上、彼を巻き込むわけにはいかない。

 ――

 不意にドアが開き、一人の医師が足を踏み入れた。その表情はひどく険しい。

「早田さん」彼は私を真っ直ぐに見据えた。

「ご両親の症状について、お話があります」

 私はベッドの上で居住まいを正した。

 医師はカルテを開き、二通の報告書を私に差し出した。

「お父様は末期の心不全を患っており、心機能はすでに15パーセントしか残っていません。お母様は……」

 彼は少し言葉を区切り、重い口を開いた。

「末期の脳腫瘍です。腫瘍はすでに重要な神経領域を圧迫しています」

 報告書が手から滑り落ちた。

 薄々感づいてはいたのだ。二人の老け方は異常で、見ていて恐ろしいほどにやつれていたから。しかし、医師から直接告げられると、やはり涙を止めることができなかった。

「あと、どれくらいですか?」私の声は小刻みに震えていた。

「お父様はいつ心不全を起こしてもおかしくない状態です」医師は小さく息を吐いた。

「お母様は……もってあと三ヶ月でしょう」

 颯斗がすかさず私の手を握りしめた。

「心配しないで。海外に行って、最高の病院と最高の医者を探そう――」

「無駄です」医師は首を横に振った。

「ご両親の病状は重すぎます。危険な手術に踏み切るよりも、残された時間を少しでも心安らかに過ごさせてあげるべきでしょう」

「いや」颯斗が立ち上がった。

「絶対に何か方法があるはずだ。金ならいくらでも出す、いくら懸かっても――」

「坂上さん」医師が彼を遮った。

「この世には、お金ではどうにもならない事もあるのです」

 颯斗は苦渋に満ちた顔色を浮かべながらも、最後は頷くしかなかった。彼は私を振り返り、力強い視線を向けた。

「どんな事があっても、僕が君を助ける。たとえ全財産を投げ打ってでも」

 私は彼を見つめ、目頭が熱くなるのを感じた。

 彼は本気だ。私のために、本当に何だってしてくれるつもりなのだ。

「颯斗」私は彼の手を握り返した。

「本当に、私のためにそこまでしてくれるの?」

「当然だ」彼は一切の躊躇なく答えた。

「君は僕の婚約者だ。君のためなら何だってする」

 私は微笑んだ。頬を涙が伝い落ちる。

 そして、私は告げた。

「なら、私たち別れましょう」

 ――

 颯斗は呆然と立ち尽くした。

「え?」

「だから」私は彼の視線を避けながら言葉を紡ぐ。

「別れましょうって言ったの」

「僕が何か悪いことでもした?」彼は途端に慌てふためき始めた。

「光、言ってくれよ。直すから――」

「颯斗は悪くないわ」私は目を閉じ、小さく息を吐いた。

「悪いのは私」

「僕が悪くないなら」彼は縋るように私の手を掴んだ。

「どうして別れるなんて言うんだ? ご両親のことなら、僕が説得に――」

「両親のせいじゃないの」私は彼の言葉を遮った。

「私が、もう結婚したくなくなったの。あなたと一緒にいたくなくなったのよ」

「嘘だ」颯斗の顔から血の気が引いていく。

「光、僕の目を見て、本当の理由を教えてくれ」

 私は顔を背け、震える声で絞り出した。

「もう疲れたの、颯斗。七回の結婚式、七回の失敗。もう二度と試したくないのよ」

「認めない」彼は深く息を吸い込み、毅然とした声で言い放った。

「何があろうと、僕は君から離れない」

「颯斗――」

「絶対に離れない」彼が私の言葉を遮る。

「これは僕が自分で決めたことだ。君には変えられない」

 そう言い残し、彼は病室を出て行った。私一人だけを置き去りにして。

 私はベッドに崩れ落ち、ただ涙を流し続けた。

 ごめんなさい、颯斗。でも、こうするしかなかったの。

 ――

 一週間後、私は両親をN市の病院へ転院させた。

 その方が看病にも都合が良いし、何より……他の諸々の手続きをするのにも好都合だったからだ。

 その日の午後、私は病室に両親を見舞った。父はベッドに横たわって点滴を受け、母はその横でリンゴを剥いている。二人とも見ていて胸が締め付けられるほどに憔悴しきっていた。

「光」私に気づき、母が探るように尋ねてきた。

「あなた、颯斗君とは……別れたの?」

「まだよ」私は淡々と答えた。

「彼が納得してくれなくて」

 父が勢いよく身を起こし、激しく咳き込んだ。

「別れなさい! 今すぐにだ!」

「お父さん、横になって」私は父を支えながら、自分でも驚くほど穏やかな声で言った。

「分かってる。約束するわ」

 両親は唖然としていた。二人は顔を見合わせ、母が疑わしげに私を見つめる。

「あなた……本当に別れる気なの?」

 私は頷いた。

「お父さんたちが私のことを思ってくれているのは分かってる。ちゃんと私がケリをつけるから」

 二人は安堵の息を漏らしたが、すぐにまた不安げな表情を浮かべた。

 父が私の手を握る。その声は掠れきっていた。

「私たちにはもう時間が残されていないんだよ。お医者様は……もってあと半年だって」

 母が嗚咽を漏らす。

「これから先、誰があなたを守ってくれるの……あなた、一体どうすれば……」

 私は顔を上げ、両親の目を真っ直ぐに見つめた。

「ただ黙ってやられたりはしないわ」私はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「あの時、お父さんたちがあの危機を乗り越えられたんだから、私にだってできないはずがないでしょ?」

 両親は驚愕の面持ちで私を見つめた。

 沈黙。死のような静寂が病室を支配する。

「あなた、どこまで知っているの?」母の声が震えていた。

「十分すぎるくらいよ」私は静かに答えた。

 父が突然泣き崩れた。彼は私を抱きしめ、声を上げて慟哭し始めた。

「すまない……許してくれ……私たちはただ、お前を守りたかっただけなんだ……本当にすまない……」

 母もまた泣き崩れながら私にすがりつき、三人は固く抱き合った。

 私たちはずっと、ずっと泣き続けた。

 ――

 病院を後にした私は、実家へ戻ることにした。

 両親の身の回りの品を取りに行く必要があったし、それに……探さなければならない物があったからだ。

 日はすでに落ちていた。N市の通りは人影もまばらで、街灯が薄暗い光を落としている。

 私は足早に歩を進めた。実家はこの先だ。あと二区画歩けば着く。

 不意に、誰かに後をつけられているような気配を感じた。

 足音。とても微かだが、常に一定の距離を保ちながら付いてきている。

 心臓の鼓動が早まり始めた。慌てちゃ駄目だ。冷静に。

 大きく深呼吸をして、私は歩く速度を上げた。

 後ろの足音も、それに合わせて速度を上げる。

 くそっ。

 私は駆け出した。

 足音はますます近づき、その速度はどんどん上がっていく。

 実家の門が見えた。赤いレンガの塀、黒い鉄格子の門――すぐそこだ!

 門へ向かって飛び込み、震える手で鍵を鍵穴に差し込もうとした――その瞬間。

 何者かの手が、背後から無骨に私の肩を掴んだ。

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