第1章
相泽栞(あいざわ しおり)はスマホの画面を見つめていた。
写真の中では、女が背の高い男の胸に身を寄せ、くすくすと笑っている。空気まで甘く、とびきり幸せそうに見えた。
ただ……。
その男は、彼女の夫で。
その女は、彼女ではなかった。
結婚記念日だというのに、夫は愛人とスキーへ行き、しかもメディアに撮られて大々的に報じられた。
世間はこぞって、神谷蓮(かみや れん)の「再婚秒読み」だの「おめでた間近」だのと勝手に騒ぐ。
涙が一滴、スマホの画面に落ちた。視界が滲む。
栞はスマホを伏せ、立ち上がると、テーブルの上で冷え切った料理を皿ごと一つずつゴミ箱へ捨てた。
冷めた飯は食べられない。
浮気した男も、要らない。
23時59分、蓮がようやく帰ってきた。
だがソファに座る栞を見た瞬間、彼は足を止めた。表情がわずかに引きつり、不自然に硬くなる。
それでもすぐ平静を装い、いつもの調子で口を開いた。
「怒ったのか? あれはメディアが勝手に……」
「違う」
説明というものは、たいてい言い訳になる。
栞は淡々としたまま、眉も目も、何ひとつ感情を映さない。
「ディープベイの新規分譲、あのヴィラ区画が気に入ったの。サインして、振り込みまでお願い」
蓮の目に、一瞬だけ笑みが走る。
「そういうの、寧々に言えばいいだろ。大したことじゃない」
以前なら、栞のことは何でも自分で動いた。
いまは、彼女が別荘を買うと言っても理由ひとつ訊かない。関心すら示さない。
――栞が離れないと、そう信じ込んでいるのだろう。
栞も薄く笑い、用意していた書類を差し出した。
「公私混同って言われたら困るから。きちんと手続きしておいたほうがいいでしょ」
そう言いながら最後の署名ページを開き、万年筆も添える。
蓮は中身に目も通さず、そのままサインした。
距離が近づく。
栞のものではない香水が、ふっと鼻先を刺した。今日のスキャンダルの当事者――橘美月(たちばな みつき)の匂い。
栞は眉を寄せ、それでも抑えきれずに問いかける。
「今日、何か忘れてない?」
「ん?」
蓮は眉をひそめ、思い出したように言った。
「ああ、美月のことか? あれは仕事だよ。」
言い切る前に、着信音が鳴った。
蓮の目が柔らかく細まる。栞にはもう用はないと言わんばかりに電話に出て、そのまま階段を上がっていった。
十年の青春が、たった数カ月で現れた女ひとりに負ける。
愛が試練に耐えられなかったのか。
それとも、愛の賞味期限はそれだけだったのか。
栞は口元に嘲るような笑みを浮かべ、契約書を閉じた。表紙の題字が、やけにくっきり目に入る。
――離婚合意書。
彼のためにすべてを捨てた。彼なら自分を負けさせないと信じていた。
現実は、頬に叩きつけられる平手打ちだった。
乾いた音がして、痛い。
彼が無一文だった頃から、会社が上場間近になるまで。
栞が得たものは何だ。
投資の席で酒に侵されて壊した胃。
社内では「金目当て」と陰口を叩かれ続ける、秘密の妻という汚名……。
馬鹿だった。噂が飛び交うまで、何が起きているのか気づけなかったなんて。
暖房もない狭い賃貸で、抱きしめて泣いていたあの大きな少年は、金と欲望に腐って別人になっていた。
離婚届。今日の、本当の記念日プレゼント。
二通目の書類を指先でなぞる。唇の弧が冷たく歪む。
感情を押し込み、栞は離婚届を送信した。
情に厚いほうだとは思う。けれど、頭が空っぽなわけじゃない。
相手が間違えたのに、こちらが身ひとつで追い出される道理はない。
自分のものは、誰にも渡さない。
相手から返信が来たのを確認し、栞は赤ワインを一杯注いだ。
あとは三十日。
手続きが終われば、神谷蓮とはきっぱり縁を切る。
その夜、栞は客室で眠り、翌朝は彼が起きる前に家を出た。
会社に着くなり、蓮の秘書・真壁寧々(まかべ ねね)が真っ先に駆け寄ってくる。
「奥様……」
「会社では、相泽課長か、名前で呼んで」
遮られた寧々が、ぽかんとする。社内でも数少ない、二人が既婚だと知る人間だ。
「社長と……喧嘩でも?」
「してない。で、用件は?」
寧々は気まずそうに言った。
「あ、今朝……社長とご一緒じゃないんですか?」
九時からの取締役会は、AI開発チームの進捗確認。神谷グループの拡大に直結する重要な会議だ。
栞を見れば、蓮も来ていると思うのが普通だろう。
「違う。用があるなら直接電話して」
栞は軽く頷き、ゲートを抜けてエレベーターで上階へ向かった。
用意していた資料をもう一度確認し、ファイルを抱えて会議室へ。
男は捨てられても、彼女が一から作ったAI開発チームは捨てられない。
九時五分前、蓮が会議室に入ってきた。
鉄灰色のスーツが、すらりとした体を際立たせる。整った顔には薄い寒気が張りつき、視線がまっすぐ栞に突き刺さった。
二人は秘密の結婚だ。公の場で親密な行為は一度もない。
正確に言えば、彼の側が一方的に距離を取ってきた。
栞は「上着を持っていって」と声をかけたり、差し入れを届けたりしたせいで社内の噂は絶えなかった。
それでも彼女は気にしなかった。夜、抱きしめられ「辛い思いさせてごめん」と囁かれるたび、胸が震えたから。
いまとなっては――頭に水でも入っていたのかと思う。
蓮の視線を無視し、栞は資料に集中した。
会議室が妙に静まり返り、周囲の落ち着かない視線が自分へ集まっているのを感じて、ようやく顔を上げる。
笑みは、仕事用にちょうどいい温度。
淡々とした目が、蓮の冷たい瞳を正面から受け止めた。
「神谷社長、何かご指示は?」
以前の甘さはなく、あるのは距離だけ。蓮の顔色がさらに冷える。
彼は栞を見ないまま会議を始めた。
怒りを含んだ声が響く。栞は、ただ可笑しかった。
会議後、栞は社長室に呼ばれた。
「まだ怒ってるのか?」
大きなデスクの向こうに座り、蓮は整ったスーツ姿の栞を見た。机一枚が、妙に遠い。
栞の顔からは、社交的な笑みすら消えていた。残っているのは淡さだけ。
「怒ってない。くだらない噂に腹を立てる価値もない」
「その態度は何だ?」
蓮は苛立ちを滲ませて立ち上がり、歩み寄る。彼が手を伸ばすより先に、扉が開いた。
橘美月が、舞い込む蝶みたいに入ってくる。
当然のように蓮の腕に抱きつき、無邪気に笑った。
「蓮、会議が終わる時間ぴったりで来たの!」
蓮が何か言いかけた瞬間、栞の口元に浮かんだ微かな嘲りが目に入った。
彼は一瞬固まり、腕を引き抜くのを忘れる。
栞が淡々と告げた。
「神谷社長、ほかにご指示がないなら失礼します」
目の前でこれ。裏で何回ベッドを転がったかも知れないのに、怒る資格だけはあるらしい。
――やっぱり、要らない。
栞は黙ったまま背を向け、扉へ向かった。
蓮の顔が張りつめ、声が低く沈む。
「栞!」
