第2章

栞は足を止め、振り返った。美月が小鳥のように蓮へ寄り添っている。

栞は口元だけを吊り上げ、嘲るように笑った。

「どうしたの。神谷社長は、社員の私に祝福でも求めてる?」

蓮の緊張を感じ取ったのか、美月の瞳に一瞬だけ陰が差す。けれどすぐに無邪気を装い、栞へ向き直った。

「私は蓮のこと、ただのお兄ちゃんだと思ってるだけだよ。栞、変に考えないでね」

そう言いながら蓮の腕を揺らす。

「ねえ蓮。会社の仕事、覚えさせるって言ったじゃん?」

「AIの資料はいっぱい読んだの。でも午後のデモをちゃんとやるなら、内部の資料も見ないと……」

栞の笑みが、そこでようやく固まった。瞳に冷たい光が宿る。

甘ったるい声は相手にせず、栞はまっすぐ蓮だけを見据える。

「……あなた、彼女に私の代わりで長谷川グループのデモをやらせる気?」

寝る間も惜しんで働き、AI開発チームを率いて技術の難所をひとつずつ越えてきた。積み上げた成果は確かなものだ。

次はグローバルコンペティション出場。業界の先頭に立つための勝負どころ。

午後のデモは、その出場資格に直結する。

それを――愛人の経歴作りの踏み台にするつもり?

……舐めてる。

浮気する男は要らない。けれど、輝く実績と、目が眩むほどの金は手放したくない。

栞の凍てつく視線を受け、蓮は目を逸らした。

数秒の沈黙ののち、彼は美月の手を押しのける。

「先に出て。話がある」

「話って何?」美月は眉をつり上げた。「社長なのに、その程度のことも自分で決められないの?」

そして不機嫌そうに栞を見る。

「それとも、相沢課長は私と張り合いたいの?」

「いい加減にしろ!」

蓮が鋭く遮る。

「出ていけ」

美月は唇を噛み、悲しげで怯えた目を一度だけ彼に向けた。目尻を赤くしたまま、委屈そうに部屋を出ていく。

だが、室内の二人は追いもしない。視線がぶつかり合う。

「俺は、彼女に何もない」

蓮が一歩近づき、距離を詰める。声にはどこか無奈が滲んでいた。

「哲也がどれだけ妹を大事にしてるか、分かるだろ。海外に行く前に、頼まれたんだ。面倒を見てやってくれって」

「卒業もしたし、俺が道を整えてやれば……兄みたいに懐くのは当然だろ」

友人の妹の面倒を――ベッドの上まで?

橘哲也(たちばな てつや)が知ったら吐くだろう。

それに、外であれだけ堂々としているくせに、今さら何を取り繕うのか。

栞は唇を引いた。笑っているのに、目が笑わない。

「神谷社長。あなたと橘さんのことに興味はない」

「でも、この案件に私がどれだけ心血注いだか、忘れたの?」

「成果が出た途端に、他人に摘ませるの?」

説明したのにまだ噛みつく。そう感じた蓮の声に、怒気が混ざる。

「神谷グループは俺が一から作った。俺とお前の関係を理由に、業務に口出しできると思うなよ」

「できないの?」

栞は冷えた声で返す。

「あのとき言ったでしょ。会社のことは、私にも発言権があるって。決めていいって」

蓮は言葉に詰まり、深く息を吐いた。

「成果を他人に渡すわけない」

「ただ、興味があるなら参加させたいだけだ」

「美月は哲也の妹だ。俺を困らせないでくれ」

「社会に出たばかりなんだ。経験になれば将来のためにも――」

そう言いながら、抱き寄せようと腕を伸ばす。

付き合い始めの頃、喧嘩をしたらまず抱き合う。そう決めた。彼の癖は抜けない。

だが今回は、栞が身を引いた。すれ違うように避ける。

離婚成立までまだ三十日。そうでなければ、その場で平手打ちを叩き込んでいた。

「いいよ」

栞は目を細めた。

「参加させてもいい……」

「それでいい」蓮はほっとしたように言う。「子ども相手にムキになるな。美月と張り合うなよ」

栞は笑った。笑みが、逆に凍てつく。

「じゃあ、離婚しよう。チームごと全部、彼女にあげる」

面子を残す必要なんてない。

「ふざけるな!」

蓮の顔色が驚くほど冷えた。

「俺はお前と離婚しない!」

一拍置き、声を無理に柔らかくする。

「最近、彼女と近くてお前が嫌だったのは分かる。哲也もすぐ戻る。そしたらちゃんとお前と――な?」

浮気した男が、許される前提で話してくる。

……寝言は寝て言え。

蓮は栞の沈黙を、ただの意地だと受け取ったらしい。離婚が本気だとは思っていない。

だから栞は言う。

「じゃあ、私の辞表を承認して」

「退職?」

蓮の眉が深く寄る。探るような視線。

会社が軌道に乗ってから、彼は何度も言った。家で楽していい、と。

栞が過労で入院したときも、同じことを繰り返した。それでも彼女は拒み続け、最後は彼が折れた。

その栞が、自分から辞める?

「美月のせいか?」

蓮は低く睨む。

「脅しだと言うつもりか? チームはお前がいなくても回る」

「確かに成果は出した。お前の功績も大きい」

「だが、個人がいくら優秀でもプラットフォームがなければ――会社がなければ、お前一人でできるのか?」

できる。

栞がいなければ、神谷のAI開発チームがこの業界で名を売れたと思っているのか。

かつて「君が一番だ」と言った男が、今は彼女を取るに足らない存在だと切り捨てる。

成果は「俺の会社」「俺のチーム」のおかげ。彼女の功績は都合よく消される。

胸が抉れるほど痛い。だが、その痛みがむしろ手放しやすさをくれる。

この男は、根っこから腐っている。

栞はもう相手にする気になれず、踵を返した。

言い争っても結論は出ない。彼女がやると決めたことは、誰にも止められない。

承認しないなら無断欠勤でいい。解雇されても失業手当が出る。

案件だって、核となる技術は彼女の手元にある。簡単に奪えるわけがない。

荷物をまとめ、栞は神谷を出て、正木公認会計士事務所へ向かった。

中へ入るなり、正木歩美(まさき あゆみ)が目を丸くした。

次の瞬間、椅子にもたれ、わざとらしく眼鏡を外して拭く。

「やだ、眼鏡作り直さなきゃ。ありえない人が見えた気がするんだけど」

「その顔、人に見られたら事務所つぶれるよ」

栞も笑って椅子を引き、同じノリで返す。

「それも困るけど、もっと怖いのはあなたが『あなたのせいでつぶれた』って言って私に養わせること。無理。私、失業者なんだけど」

二人は幼い頃から一緒だ。血より濃い、選び取った家族。

「失業?」

歩美は笑みを消し、鼻で笑った。

「あのバカ、あんたを手放すの? あんたが支えたからここまで来たのに。AI開発チームだって一から作ったの、あんたでしょ」

すぐに、彼女はにやりと戻る。

「でもさ、あいつがバカやってくれてよかった。これであんたは自分の仕事を作れる。感謝しな、あいつの愚かさに!」

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