第3章
「……それ、あいつの悪口? なんか回りくどく私まで刺してない?」栞は眉をつり上げた。
「分かってるならいい」
歩美は遠慮なんて欠片もなく、白目まで添えてくる。
「誰のために頑張るかより、自分の手の中に掴んだほうがマシ」
「向こうはもうすぐ上場企業の社長サマ。で、あんたは何?」
「ほら、あの得意げなツラ。結婚したときは泣きながら『君に申し訳ない』とか言ってたくせに、今は浮気相手を囲ってる。……へえ、本当に申し訳ないと思ってるなら、やること違うでしょ」
「つーか私たちも悪かったよね。あのときの『ごめん』、意味が違ったんだよ」
栞の胸にくすぶっていた苛立ちは、歩美が代わりに怒ってくれるぶん、すっと薄くなっていった。
笑みが深くなる。彼女も、その調子に乗って軽口を返す。
「はいはい。全部私が人を見る目なかったせい。あんな小物にきれいに騙された」
「分かってるならいい。そんな男、さっさと捨てな。三十日後、すぐパーティー開いて祝ってやる。で……」
歩美が眉を跳ね上げる。
「独立、考えてる? 起業しちゃう?」
沈黙が落ちた。
歩美が、栞は平気なフリをしてるだけかと慰めの言葉を探し始めた頃、栞がゆっくり口を開く。
「考えたよ。でもAIは技術の比重が大きすぎる。私が単独で動いたら、神谷に目をつけられる。最悪、営業秘密の漏洩とか言いがかりをつけられるかもしれない」
蓮の人間性は、何度も下限を更新してきた。もう、信じる余地なんてほとんどない。
歩美は含みを察して、にやにやしながら眉を動かす。
「なら大企業だよ。守ってくれる。ついでに、いいことあるかも」
「司が帰国したの。TSを立ち上げて、AIに本腰。いま人材をがんがん募集中」
「栞のレベルなら、行ったらプロジェクトマネージャー確定。どう?」
栞の口元がひきつった。
一ノ瀬司(いちのせ つかさ)。大学の先輩。二人とも目立つ存在で、顔を合わせる機会も多かった。
けれど関係は最悪だった。
蓮が嫉妬するのが鬱陶しくて、そして周りが勝手に二人をくっつけたがるのが腹立たしくて、栞はとんでもないことをした。
昼休み、体育館の更衣室に忍び込み、司のジャージのズボン紐を――切れそうで切れない程度に切った。
その日の午後の試合は、あまりにも美しすぎて。栞は怖くて見に行けなかった。
それ以来、司は学校から姿を消した。原因なんて、あれ以外にない。
しかも一ノ瀬家は官も商も太い。長男の司が本気で調べれば、辿り着くのは一瞬だろう。
彼の前をうろつかないことこそ、自分への最大の祝福。
「しかも独身だよ? 奥さんになったら、蓮なんて余裕で踏み潰せるって!」
歩美が止まらないので、栞は手を上げて制した。
「私が別の顔に生まれ変わらない限り、今世で彼の前に立つ勇気はない」
「それに、神谷を出るにしても、片づけること山ほどある。言ってすぐ行ける話じゃない」
「まあね」
歩美はそこで切り替え、栞を引っ張って食事と買い物に連れ回した。
――午後、二人で買い物に夢中になっていた最中、寧々から電話が入った。
栞は眉をひそめながら出る。
「奥様!」
切羽詰まった声が飛び込んでくる。
「演示が大変なことになりました! すぐ戻っていただけますか?」
……呆れるほど愚か。
決まった段取りをなぞるだけの演示で躓く? 蓮はそんな人間を出したのか。
いや、一番愚かなのは自分だ。最初からあんなクズを選んだ。
鼻で笑い、栞はそのまま通話を切った。
次の瞬間、また着信。二度目も切った。
「どうしたの?」歩美が覗き込む。
「ゴミの後始末。神谷に行く」
「私も行く」
「この程度、私が片づけられないと思う?」
栞は歩美をなだめ、車を出した。
神谷へ向かい、エレベーターで社長室へ。ノックする前に扉が開き、美月が出てきた。
目は真っ赤で、兎みたいだ。しかも、こちらを睨みつけてくる。
栞は無視して道を譲り、美月が出たのを確認してから中へ入った。
一目で分かる。蓮のシャツの胸元が濡れている。
彼は不自然に咳払いした。
「来たのか」
「呼んだのはあなたでしょ」
蓮の顔がさらに気まずくなる。
「長谷川グループが、別の人の演示は認めない。君が出る必要がある」
「へえ」
栞は理解したように笑った。
「相手が人選を嫌がったんじゃなくて、あなたの選んだ人がやらかしただけじゃない?」
「いつまで美月にこだわるんだ? お前は勝手に決めつけて……俺と彼女は――」
「あなたたちの話は、ネットで十分」
栞はひやりと遮る。
「私まで観客になる必要ない」
「彼女に演示の機会を渡せって言ったのは、あなたでしょ」
「経験を積ませたかっただけだ。君の利益は損ねてない。それなのに、どうしてそこまで噛みつく?」
蓮の目つきが冷え、苛立ちが滲む。
「今の君は、ただの嫉妬だ!」
栞は軽く笑った。眉も目も冷たい。
「離婚していいって言ったのに? 嫉妬なんて必要ある?」
「栞!」
蓮の怒りが膨らむ。
「大人だろ。友人の妹にそこまで冷たくするのか? 彼女は君のこと、姉って呼んで――」
「人妻に、艶めかしく絡んでくる『妹』なんて知らない」
栞が切り捨てると、蓮は逆に静かになり、低く笑った。
「機嫌が悪いのは分かる。でも会社の利益を損ねるわけにはいかないだろ」
「哲也もいる。小娘相手に意地を張るのか?」
栞は眉を上げた。
「ダメ?」
そして畳みかける。
「辞職、OAで回してる。今、承認して」
「なぜだ?」
「理由なんている?」
栞は首を傾ける。
「辞めたいから辞める。それに私、お金はある。生活を楽しみたい。社内の陰口も面倒」
「退職は、今は無理だ」
やっぱり。
午前中、彼女抜きでも回ると言い切った男が、急に評価を変えるはずがない。
結局、演示や折衝を任せられる人材が足りないだけ。あるいは――もっと悪く言えば、愛人を連れて回す役にしたいのだろう。
「じゃあ行かない」
「栞、お前……俺を追い詰める気か? 忘れるな。君の両親が、ずっと何を望んでいるか――!」
その一言が、栞の中に残っていた「人としての蓮」を引き裂いた。
家族は弱点であり、絶対に踏み越えてはいけない線だ。それを脅しに使う。
栞の信じられない目を受けて、蓮も言い過ぎたと気づいたらしい。声を落とす。
「……休ませないわけじゃない。今はまだ無理だ」
「一か月だけ。引き継げる人材を用意する。頼む」
栞は、凍りついた目で告げた。
「あなた、今の言葉、覚えておいて」
……
栞はPPTを見直し、問題がないのを確認してから、長谷川グループの担当者にも電話を入れた。
夕食の席で詳細を詰めることに決まる。
頭の中で全体を組み直し、長谷川グループと担当者のバックグラウンドも洗い直した。
そして時間ぴったりに、地下駐車場へ。
エレベーターを出た瞬間、見慣れた車が目の前に止まった。
助手席の窓が下がり、美月の拗ねた顔が覗く。
運転席の蓮が言う。
「乗れ。一緒に行く」
