第4章

「容疑者の落ち度が、まだ足りないって?」

相沢栞はふたりを一瞥しただけで、容赦なく切り捨てた。

神谷蓮が眉をひそめた、その瞬間。橘美月が先に口を開く。

「相沢課長、午後のデモは私がうまくできませんでした。わざわざ戻っていただいて、すみません」

「だから……ついて行って勉強したいんです。でも先方が……」

一瞬、顔に焦りが走った。けれど栞を見る目だけは、どこか得意げだ。

「でも、蓮が一緒なら大丈夫。守ってくれるもん!」

弾む声。赤く残った目元さえ、計算された可愛げに見える。

女同士の火花は、声を荒らげなくても刺さるほど分かりやすい。

栞がそれを読み取れないほど鈍いなら、この数年は無駄だったことになる。

示威行為?

神谷蓮が堂々と美月の立場を認められるようになってから、好きなだけはしゃげばいい。

「じゃあ、しっかり守ってもらえば。電話一本で置いていかれないようにね」

栞は唇をわずかに引き、目尻に刺々しい嘲りを乗せた。

ふたりの反応など見ず、さっさと自分の車のドアを開ける。

甘やかされて育ち、ここ最近は蓮に持ち上げられっぱなしの美月には耐えられなかったのだろう。顔色が変わり、声が冷たくなる。

「謝ったのに、まだ何か不満なの?」

「いい加減にしろ!」

蓮が遮り、見えないところで美月の手の甲を軽く叩いて落ち着かせる。

そして栞へ向き直った。

「トラブルが出たなら、やり直せばいい。それなのに、子どものミスをいつまでも責めるなよ」

「それに、お前がちゃんと教えなかったからだ。午後の失敗は」

「謝れ。そうすれば終わりにしてやる」

――はあ?

数秒、栞は自分の耳を疑った。

けれど視界の端に映った美月の、こらえきれない口元。そこで悟る。自分がまだ蓮を「まともな人間」扱いしていたのが間違いだった。

「バンッ」とドアを閉め、栞は大股でふたりに詰め寄った。

顔は無表情に近いのに、空気だけがひりつくほど重い。

蓮が慌てて美月の手を離し、言い訳しようとする――その前に、車の横に立つ栞が言った。

「謝る?」

「何に? 私の案件を奪って失敗したこと? それとも、尻拭いを私にさせたこと?」

「この案件、あなたたちだけで処理できるなら、なんで私を呼び戻したの?」

最後のひと言が、氷の針みたいに突き刺さる。

蓮の顔が露骨に歪んだ。

それでも栞は、ふっと笑う。

「神谷社長も、自分が正しい立場じゃないって分かったみたいね。じゃあ、好きに宥めて。私は仕事があるから」

言い捨てて車に乗り込み、エンジンをかけて走り去る。迷いのない一連の動き。

ただ、ハンドルを握る手がわずかに震えていた。

――彼は、いつからこんな男になった?

かつての優しい囁きは、いつの間にか誰かを庇う刃になって、彼女の尊厳を踏みにじる。

愛が消えたなら、ここまで残酷でいいのか。

それとも最初から、彼の冷たさと自己愛を見抜けなかっただけなのか。

栞はゆっくり息を吐き、温度のない笑みを作った。

どうでもいい。

離婚が成立して、形だけの役目を終えれば――もう他人だ。

――ミッドナイト。

臨海市最大の歓楽街。御曹司の遊び場であり、大物が裏で話をまとめる場所でもある。

背後にいるボスの格が違う。ここで揉めれば、音もなく消える。

逆に言えば、話す側も邪魔されない。

栞は車を降り、事務的な笑顔を貼りつけたまま入口へ向かった。

すると、また蓮と美月がいる。

本当に付いてきたのか。さっきの言葉は、まだ足りなかった?

栞は一瞬だけ反省し、ふたりを視界に入れないまま通り過ぎた。目もくれない。

蓮の不機嫌はさらに冷え、ふたりの空気が張り詰める。

美月が彼の腕にしがみつき、委屈を滲ませた声を出した。

「蓮、午後のことは確かに私が悪かった。でも、あそこまで偉そうにする?」

「ただの課長のくせに、社長にあんな態度……普段から甘やかしすぎなんだよ」

先にミッドナイトへ入っていく栞は、口元をわずかに上げた。

心臓は針で刺されたみたいに痛いのに、同時に手放せる軽さがある。

彼が無様で下劣であるほど、彼女は未練なく捨てられる。

蓮は栞の背中を見つめ、声を冷やした。

「反省したなら黙ってろ」

美月は叱られて目を見開く。反論する前に彼はもう歩き出し、彼女は足を踏み鳴らして追った。

三人は前後して予約の個室に入る。

長谷川グループの窓口担当・木村宇は三十代。柔らかな物腰で、いつも笑みを崩さない。

だが知っている者は知っている。笑顔の奥に刃を隠し、品が悪い。とくに女好きだ。

過去の打ち合わせでも匂わせがあった。今日はさらに露骨。

「相沢課長は有能なのに、午後に出てきた人はいただけなかったな。長谷川グループを舐めてるのか、それとも俺を?」

笑っているのに、目の底は狡猾だった。

――呆れる。蓮、ほんとに鈍くなった。

木村宇ですら美月が使えないと見抜いているのに、本人だけが気づかない。

栞はわずかに本音の笑みを混ぜ、相手の台詞に乗った。

「私の采配ミスでした。賢いと思ったら、中身が空っぽで。木村さんの時間を無駄にしました」

「じゃあ、その損失はどう埋める?」

木村の視線が、檻に入った獲物を舐め回すように栞をなぞる。

不快が背筋を走ったが、栞は表情を崩さず淡々と返す。

「ミスした本人が謝ればいい。木村さん、それでどうです?」

木村が眉を上げかけたところで、蓮が美月を連れて入ってきた。

木村は低く笑い、握手に出る。

「神谷社長もご一緒ですか。ずいぶん本気ですね」

「なら今後の窓口は、やはり相沢課長が――」

課長を小さく扱うような物言い。蓮もまた、相手を下に見ている。

だが神谷がグローバルコンペティションに出るには資格が足りない。長谷川グループの後ろ盾が必要だった。

蓮は愛想は薄いが冷淡ではない程度に応じる。

「木村さん。今回の協業は重視しています。責任者については検討します」

検討。

会社の利益最大化か、それとも愛人の箔付けか。

栞が内心で読み合う間に、全員が席に着いた。

木村はわざと火花を表に出す。

「神谷社長が橘さんを相当可愛がってるって噂、信じてなかったんですがね。今日は信じました」

「となると、謝罪の酒は相沢課長が飲むべきかな。どれほど優秀な部下でも、女には敵わない」

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