第5章

含み笑いの声が、じりじりと逃げ場を塞いでくる。

だが栞には、別の匂いがした。――宇は、何かを知っている?

思考がまだ追いつかないうちに、美月のか細い声が上がる。怯えが少し混じっていた。

「木村社長、今日は私の準備不足で、お時間を無駄にしてしまって……」

「言葉より気持ちです。私、敬います!」

美月はグラスを手に取り、宇へ向けて掲げた。怖がっているのに、健気に踏ん張ってみせる――そんな顔。

清純ぶった弱々しさは、男の庇護欲を簡単にくすぐる。

けれど蓮は、椅子に張り付いたみたいに硬直したまま動かない。栞もまた、薄く笑いながら眺めているだけだ。まるで見世物でも見ているかのように。

美月は、蓮が止めてくれると踏んでいたのだろう。だが彼は無反応。

結局、美月は仕方なく喉を反らし、一気に飲み干した。

辛い酒が喉を焼く。もともと「可哀想」を引き出す気でいたのもあって、すぐ咳き込み、涙まで滲んだ。

蓮はさすがに忍びないのか、ティッシュを差し出す。その視線が、次に栞へ滑った。

栞は横目で一瞥する。露骨な軽蔑。

――部下は女に敵わない。へえ、認めるんだ。

栞がグラスを取ろうとした、その瞬間。

蓮が先に手を伸ばしていた。

「木村社長。女性を困らせる必要はないでしょう。今回の手配ミスは、私の判断の問題です。この詫び酒は私が」

「それで……」

宇は笑いながら、蓮が飲み干すのを見届けてから続けた。

「神谷社長は、そこまで全部お世話するんですか」

蓮も場慣れしている。軽く笑って受け流した。

「冗談ですよ。二人とも私の部下です。守るのは当然でしょう」

言葉だけなら、綺麗だ。

だが妻の栞には虚偽にしか聞こえないし、愛人の美月には優柔不断にしか映らない。

どちらも守る――つまり、どちらにも本気じゃない。

宇は二人を何度か眺め回し、視線を栞へ落とした。

「相沢課長。午後の件は、まあ、もういいでしょう」

「ただ、最近どれだけ忙しいか分かりますよね。午後の時間を捻り出すために、どれだけ予定を断ったか」

「それがこの有様。改めて時間を調整するのは、正直かなり厳しい」

大げさに首を振り、ため息までつく。まるで大問題でも抱えたような顔だ。

栞は笑ってグラスを持ち上げた。

「ご調整、ありがとうございます。御社に認めていただくのは神谷にとって重要です。どうかもう一度、工面していただけませんか」

そう言って、一杯をすっと飲み干す。

さっきの美月みたいに咳き込むこともない。笑みの形すら崩れない。

まるで、水でも飲んだかのように。

「いいですね。さすが相沢課長だ」

宇は途端に栞へ酒を重ね始めた。欲が、目に見えるほど滲んでいる。

蓮の眉間が寄った。

結局、自分の女だ。黙っていられず、栞の手首を掴む。

「彼女の酒は――」

「神谷社長」

宇が被せる。

「あなたが自分の女を庇うのは、まあ分かる。だが部下の酒まで庇う?」

「それは、よろしくないですね」

酒席で女に飲ませ、からかう。暗黙の了解だ。

二人とも守られたら、この席の“味”が消える。

蓮もそれを理解している。だからこそ、躊躇った。

栞の胸に、嘲りが満ちる。

――愛してるだの、美月はどうでもいいだの。なのに今さら迷う?

男の口から出る言葉に、真実なんて一欠片もない。

そこへ、美月の甘ったるい声が絡みつく。

「蓮……お酒、辛すぎる。ほんとに飲めない……」

さっき、涙目で咳き込んだ顔が蓮の脳裏に焼き付いたのだろう。

彼の目に宿る庇護欲は、隠しきれていなかった。

そして栞へ向けた視線には、申し訳なさ――よりも、圧が混じる。

「お前がこの案件の責任者だ。問題が出たなら、埋めるのはお前だろ」

「彼女はまだ若い。こういう場に慣れてない。二杯で倒れる」

――笑える。

自分だって、彼と起業した頃は若かった。卒業したばかりで、何もかも手探りで。

その頃の彼は確かに守ってくれた。首筋に落ちた熱い涙の温度すら、まだ覚えている。

胃が焼けるように痛くても、心は嬉しかった。

でも、今の痛みは違う。

彼を剥がすための痛みだ。

栞の瞳から怒りがすっと引き、口元に笑みが浮かぶ。どこか解放されたみたいに。

ただ、首元の違和感が強くなり、眉がわずかに歪んだ。

いつからだったか。酒精アレルギーが出るようになった。

軽いから平気――なんて、言い切れるものじゃない。重くなれば、死ぬことだってある。

「相沢課長」

宇の声が落ちる。どぶどぶと注いだ酒が、目の前に三杯並べられた。

「神谷社長が期待しているんです。もう逃げないでください」

栞は無理を押し込め、自然に見える笑みを作る。

「今夜は、不酔不帰でいいですよ」

「でも、演示の日時だけは確定してください。こちらも準備がありますから」

「もちろん」

宇は答えを濁したまま、笑う。

「相沢課長が俺と気持ちよく飲めたら、全部うまくいきますよ」

“気持ちよく”。

基準なんてない。宇の気分次第だ。

蓮の目が揺れた。会社が大きくなってから、こいつの心まで野太くなった。

こんなふうに握られるのが、本能的に気に食わないのだろう。瞳に冷えた色が差す。

彼は並んだ酒を見て、それから栞を見る。訊いているのが分かった。

――長谷川グループ以外に、手はあるのか?

ある。だが、ほぼ不可能に近い“保険”だ。

栞は視線を戻し、唇の端を上げた。

「そう言われると、困りますね」

「ほう?」宇が眉を上げる。「俺と飲むのが、そんなに嫌ですか」

「まさか」

そこへ、美月が天真爛漫に口を挟む。

「相沢課長って、もともと広報ですよね。お酒、すっごく強いし。特に男の人と飲むの、得意じゃないですか」

無邪気な声。中身は、毒。

栞が積み上げてきた功績を、全部『男に付き合った結果』に落とす一言。

――なるほど。蓮が美月を選ぶわけだ。

功績を消すのが得意な者同士。お似合いだ。

冷笑が眉尻に乗る前に、蓮の冷えた視線が美月へ刺さった。露骨な警告。

美月は不満そうに唇を尖らせたが、それ以上は言わない。

栞も二人を見ているのが面倒になり、話を前へ進めた。

「せっかく来たんです。もちろん、付き合います」

「私が無理でも、神谷社長が木村さんを楽しませないはずがありませんし」

「ただ、気がかりがあると落ち着かないんです」

「もしこちらが難しいなら、戻って新しい案を作り直します」

笑みは崩さない。

けれど言外に告げる。――自分たちは、長谷川グループだけに縋っているわけじゃない。

宇が目を細めた。

「今から作り直し? 時間が厳しいでしょう」

「複数案は当然です」

栞の笑みが、さらに深くなる。

「木村さんのほうはどうです? 神谷と組まない場合の代案、ありますか」

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