第6章
宇の顔から血の気が引き、視線の奥にほんのわずかな――しかし確かな――やりきれなさが滲んだ。
神谷には長谷川グループの後ろ盾が必要。けれど長谷川グループの研究は壁に突き当たり、今度は神谷の技術こそ喉から手が出るほど欲しい。
しばらくして、宇はまた例のにこやかな仮面を貼り直す。
「相沢課長はさすが神谷の技術の要だ。いつか転職を考える日が来たら、まずは長谷川グループを優先してくれよ」
「木村さんにそう言っていただけて光栄です」
栞はそこに引っかからない。目の前の酒を三杯、続けて流し込み、宇から新しいデモの日程を引き出した。
ただ、体はもう限界だった。
胃の奥が灼けるように熱く、首筋の痒みはさらに鋭くなる。スカーフの下では、きっと赤い発疹がびっしり広がっている。
先にアレルギーの薬を飲んでいたのに、止まらない。
眉間が勝手に寄る。もうここを出て、すぐ病院へ――そう思ったのに。
額には冷たい汗が浮き、頬は青白い。
「……どうした?」
蓮の声が上がった、その瞬間。
「う……蓮……」
美月の苦しげな声が割り込んだ。
彼女は胃を押さえ、蓮の腕にしがみつく。
「お腹が……すごく痛い……」
甘ったるい痛み声が、蓮の意識を一瞬で奪い尽くした。栞の髪が汗で濡れていることなど、目に入るはずもない。
蓮は美月を見下ろす。
「どうした?」
「つらい……たぶん、さっきお酒を飲んだから……。蓮、私、お酒なんて飲んだことないの。もしかしてアルコール中毒とか……?」
馬鹿げた推測なのに、蓮の瞳に慌てた色が燃え上がる。
彼は美月を横抱きにし、さっさと部屋を出ていった。栞には一度も視線を寄越さないまま。
「あとで寧々に迎えに行かせる」
栞は、その背中を見つめた。
痛い?
――それより、可笑しい。
鏡がなくても分かる。汗でぐしゃぐしゃ、顔色も最悪。なのに彼は、美月の一言で何もかも忘れた。
……いや。迎えを寄こすことだけは覚えている。
それまで、私はどうすればいい?
蓮は、本当に宇の腹の中が見えていないのか。
扉のほうを見つめているうちに、視界がじわりと滲んできた。見つめすぎたせいなのか、体がもう保たないのか。
宇が、低く笑って言う。
「相沢さん。何年そばにいようが無駄だよ。堂々と隣に立てる女には敵わない」
「これだけ長くても名分を貰えないってことは、つまり彼の心に君はいない」
……貰った。
反射で言い返しかけて、栞は自分の浅ましさに気づく。
この状況で、まだ蓮を庇うつもり?
栞は目を閉じ、喉の奥までせり上がる不快感を押し込んでから宇を見た。
「名分がないって、どうして分かるの?」
「ん?」
宇は一瞬きょとんとして、すぐに笑った。
「仮にあったとしても同じだ。男ってのは、本気で愛してるなら世界中に見せびらかしたい。神谷社長がそうしたいのは橘さんだけだろ。君は……諦めな」
――愛しているなら、世に示す。
なら、隠すことを受け入れた瞬間に、自分は負けていたのか。
長年の積み重ねが、音もなく崩れていく。笑い話みたいに。
けれど、悲しんでいる暇はない。
蓮はクズ。宇も同じ穴のムジナ。
今すぐ出なければならない。なのに、体が言うことをきかない。
「まだ帰る気か?」
宇の手が椅子の背に置かれ、笑いながら顔を寄せてくる。
「どうせ彼にはもう別の女がいる。君が一から作った案件だって平気で人に渡す」
「だったら俺にしろ。長谷川グループへ来い」
「他は保証できない。でもこの案件は、最初から最後まで君に握らせる。そこだけは俺が保証する」
その言葉に、栞の胸の奥がひどく冷えた。
宇みたいな男ですら、彼女の価値を値踏みする。なのに蓮は「チームのおかげ」だと言った。
栞はふっと笑う。
「……ずいぶん惜しむんですね」
「才能も惜しいし、美人はもっと惜しい」
宇は栞の頬を指で摘むように触れた。
「肌が綺麗だな。神谷社長が、あんな役立たずを好むのが不思議でさ」
「彼が誰を好むかなんて、どうでもいいです」
栞は静かに返してから、宇の目を見た。
「私の肌、本当に綺麗?」
怪訝そうな宇の視線の前で、栞はスカーフを引き抜いた。
首筋一面に広がる赤い発疹。
宇の表情がはっきりと引きつり、反射的に身を引く。慌てた拍子に椅子がガタンと鳴った。
「なんだ、それ……」
だが次の瞬間、彼は何かを悟ったように笑い、薄気味悪い光を瞳に宿す。
「自分で薬でも盛って、俺を萎えさせるつもりか? 無駄だ。顔がいい。諦めるわけないだろ」
疹でも退かない。
……色欲の亡者。
栞は酒瓶を掴み、卓に叩きつけた。
ガシャン、と割れる。破片が飛び散る。
ギザギザになった瓶底を、宇の喉元へ突きつける。
「男女のことは合意が前提です。木村さんも、ロマンチックな夜を血まみれにしたくないでしょう?」
宇の顔が歪み、すぐに嗤った。
「へえ。気が強いじゃねえか。そこまで蓮に惚れてるのか?」
「けど、あいつは美月しか見てない。君がそばにいても無駄だ」
栞はもう、言葉を削るしかなかった。
頭がぼうっとする。ここで倒れたら終わりだ。
栞はふらつきながら立ち上がり、部屋の外へ向かう。
その瞬間――頭皮に走る激痛。
「逃がすかよ」
宇が髪を掴んで引きずる。陰気な声が耳に刺さる。
「大人しくしろ。そうすりゃ苦しみが減る」
引っ張られる痛みで視界がぐらつく。胃の灼熱、広がり続ける発疹。力が抜けていく。
栞は唇を噛み、右手を後ろへ突き出した。
刃が腕を裂き、宇が悲鳴を上げる。手が離れた。
ぽた、ぽた、と血が淡い色の絨毯に落ちる。
その赤に煽られたように、宇の目が獣じみていく。
「このクソアマ……俺を傷つけやがったな!」
「今夜は徹底的に可愛がってやる。動画も撮る。全員に見せて――」
下劣な言葉が続く。
胸の中は、冷たく沈むばかりだった。
ここまで騒いで、誰も来ない?
ミッドナイトの警備が、こんなに甘いはずがないのに。
「助けて!」
栞は喉が裂けるほど叫び、残った力をかき集めて一番近い個室の扉に体当たりした。
ぐらり、と頭が揺れる。
「助け……て……」
扉の向こうが、瞬時に静まり返った。
主座に座る男は、気品に満ちた佇まいで、薄い笑みを浮かべている。
だが栞を見た瞬間、その笑みが消えた。
凍りつくような冷気が広がり、空気ごと固まっていく。
同席していた男が慌てて叫ぶ。
「何だ、さっさとつまみ出せ!」
「一ノ瀬様の席を汚すな!」
胸の奥の最後の灯が、ぷつりと消えた。
栞は見間違いだと思いたかった。
けれど――そこにいるのは、確かに司だった。
彼が助ける?
そんなはずない。むしろ、面白がって突き落とす側だ。
