第7章
四つの視線がぶつかった。滲んだ視界が距離の感覚を奪い、栞が助かるという希望さえ、はるか彼方へ押し流していく。
栞はゆっくりと目を閉じた。青白い頬には血の気がなく、髪はぼさぼさで、全身が壊れかけた人形みたいに見えた。絶望だけが、そこに残っている。
ぼんやりと足音が聞こえた気がした。誰かが周りで慌ただしく動き、視線が渦を巻いている気配もする。
司が陰った顔で立ち上がり、栞のほうへ歩み寄った。
「一ノ瀬様、これは事故でして」
支配人は膝が笑っているのが分かるほど震えながら、貼り付けた笑顔を浮かべる。
「平素はミッドナイトの警備も万全です。すぐにこちらで処理を――」
言いながら視線で合図を送る。次の瞬間、誰かが栞の肩を掴もうと手を伸ばした。
「触るな!」
氷みたいな司の一言が落ちた途端、空気ごと凍りつく。伸びた手が宙で止まり、誰も動けなくなった。
司は栞の前にしゃがみ込み、低く問う。
「何があった?」
声が聞こえる。顔を上げたい。けれど栞は指一本動かせなかった。全身の力を振り絞っても、ほんの少しの動きさえできない。
それどころか、過敏反応の発疹が広がっていく。綺麗だったはずの顔が、もう見ていられないほど痛々しい。
司が息を呑む音がした。眉間がきつく寄る。
「一ノ瀬様、病気かもしれません。近づくと、万一うつ――」
最後まで言わせなかった。
司は身を屈め、そのまま栞を抱き上げた。
その動きに、個室の人間たちが一斉に息を止める。驚き、焦り、困惑、苛立ち――表情がそれぞれ違う。
司は短く命じた。
「遠、調べろ」
……
「や……やめて……」
栞は深い悪夢に沈んだ。
怪物が執拗に追ってくる。最初にその顔をしていたのは宇だった。
必死に逃げる中、突然、蓮の姿が見えた。
かつて彼女を安心させてくれた人。今は怖いのに、それでも体が勝手に助けを求める。
「助けて!」
栞が縋りつこうとした瞬間、蓮は容赦なく彼女を突き飛ばし、隣にいた美月を抱き寄せた。
栞の恐怖も、痛みも、絶望も見ないふりをして――光のほうへ歩いていく。彼女を、怪物に差し出して。
嫌だ――!
怪物に掴まれる寸前、背の高い影が割り込んだ。栞と怪物の間に、壁のように立ちはだかる。
誰……?
必死に顔を見ようとして、栞は勢いよく起き上がった。
「悪夢か」
苛立ちの混じった声。
栞の混乱した思考と、波立つ感情が、ゆっくりと収まっていく。
この声に慰めがあるからじゃない。怪物を倒すなら、絶対にこの男に頼ってはいけない――それが分かっただけだ。
まばたきをして焦点を合わせる。
そこにいるのは蓮。かつては魅入られた顔。今は憎悪しか残っていない。
「私を病院に運んだの、あなた?」
眉がわずかに寄る。昨夜、個室に飛び込んだあたりから記憶が途切れ途切れだ。
朧げに、司を見た気もする。
「栞、お前……頭は大丈夫か」
蓮の声は冷たく、肉を裂くみたいに容赦がない。
「美月は酒に慣れてない。胃をやって入院した」
「それでお前まで入院? 大人なら、そんな幼稚な真似はやめろ」
栞は口元だけで笑った。笑っているのに、目はまったく笑っていない。
神谷グループの社長なら、昨夜のことを調べるのは造作もない。
なのに彼は何もしない。勝手に決めつけて、罪を被せるだけ。
愛されない相手には、首を吊っても「ブランコしてる」としか見えない。
「幼稚で悪かった。仕事の邪魔をしたなら、もう帰って」
淡々とした声。冷えた距離、そのもの。
蓮の眉が深く刻まれた。目の前の女が、急に遠くなった気がして、一瞬だけ胸がざわつく。
だが、それも一瞬。
言葉が彼の怒りに火をつけた。
「その態度は何だ? 自分を痛めつけて、俺に構ってほしかったんだろ!」
大きく息を吸い、無理に声を柔らかくする。
「望むなら言え。身体を使って俺を心配させるな、いいな?」
栞は嗤った。
「昨日、言う隙くれた?」
「あなた、彼女を抱えて出ていったじゃない」
責めるでもなく、ただ舞台を眺めるような冷めた言い方。薄い嘲りが混じる。
昨夜で、幻想は完全に死んだ。
「……」
蓮が言葉に詰まる。けれどすぐ言い訳を拾った。
「体調が悪い人を病院に連れていって何が悪い?」
「彼女は哲也の妹だ。見捨てられるか」
「知らない他人だって、放ってはおけないだろ」
立派な理由だ。
宇に置き去りにされたのに、悪いのは栞になる。
栞はもう疲れていた。虚偽に付き合う気はない。
「じゃあ、彼女を看病して」
「当然だ。哲也の妹だからだ。妹だと思ってる」
「お前が考えてるような汚いことはない!」
声が大きくなる。誰に言い聞かせているのか。
「栞。今回が最初で最後だ」
「幼稚な手で俺を縛るな。美月に何かするな」
「俺は、妹として――」
妹と、ベッドを?
メディアに出ていない写真も、栞の手元には残っている。
だが暴いたところで意味はない。彼がもっと醜くなるだけで、関わりが増える。
あと29日。終われば、もう関係ない。
「分かった」
栞はそう言って横になった。
胃の痛みも、アレルギーも、逃げ回ったせいの傷も、全身が重い。口喧嘩をする力すらない。
蓮は彼女の静けさに苛立ち、口を開きかけ――
着信音。
数秒後、冷たい声で言う。
「休め。あとで来る」
だが電話口の声は甘かった。
「うん、今すぐ行く……」
扉が閉まる。
栞は嘲るように笑った。
あれだけべったりな美月が、昨日ミッドナイトへ行く隙を与えるとは思えない。
なら、昨夜、誰が自分を運んだ?
考えながら、栞は眠りに落ちた。妙に深く、安らかな眠りだった。
目が覚めると、少し力が戻っている。手足を動かしてから起き上がり、ナースステーションへ向かった。
「57番の栞です。昨日、私を運んだ方の記録を確認したいんですが」
看護師は端末を見て首を傾げる。
「……記録がありませんね。あれ?」
栞は一瞬呆けたが、すぐに小さく笑って頭を下げた。
「ありがとうございます」
宇から自分を救い出す。それもミッドナイトの中で――。
そんなことができる人間。
記憶の中の曖昧な影を思い出し、栞は無意識に首を振った。
やっぱりミッドナイトに行って聞くしかない。
病室へ戻る途中、ドアの隙間から見えてしまった。
蓮が美月に薬を飲ませている。やけに優しい手つきで。
看護師がくすっと笑い、からかうように言った。
「彼氏さん、優しいですね」
美月は頬を染め、蓮も笑みを深くする。
けれど蓮が顔を上げた瞬間――廊下に立つ栞と、目が合った。
