第1章
私の叔母は、アメリカの血統政治から遠く離れたヨーロッパで私を育てた。
叔母は、私が弱い人間と結婚してしまうのではないかと、心の底から怯えていた。
だから彼女は、自分の手で事を進めた。
東海岸のエリート・パックの上層社会の中で、私のために“運命の番(つがい)契約”を取りまとめたのだ。
私の――名目上の相手は、カエル・ヴォス。
彼は新たに選ばれたアルファ後継者で、この縄張りで最も結婚相手として望まれる男だった。
今日、私は街で最も排他的なパック御用達の高級ブティックへ足を踏み入れた。
目的は一つだけ。
ムーンストーン・メイト・ネックレス。
世界に一つの特注品だ。
私たちの世界では、それは“運命の番契約”を形として証明する、究極の象徴だった。
ついに、ベルベットの箱を手の中に収めた。
希少な石がかすかに脈打ち、太古の月の力を帯びた振動が、皮膚越しに低く唸るように伝わってくる。
その瞬間、息が詰まるほど甘ったるい香水の匂いが鼻腔を侵した。
ブティック本来の自然な香りを、完全にかき消すほどに。
背後から手が伸びた。
私の手から、ネックレスが奪い取られた。
振り向くと、女が宝飾品を睨みつけていた。
彼女は私の顔を見ることすらしない。
「このデザイン、悪くないわね」
彼女は店員に命じた。
「今すぐ、私のフィッティングルームに持ってきて」
店員は即座に駆け寄り、私の指からベルベットの箱をひったくるように奪った。
「失礼」私は危険なほど平坦な声で言った。
「それ、私が持っていました。先に手に取った者勝ちでしょう」
腕を組む。
「パックの基本的な礼儀は、窓から投げ捨てたんですか?」
女がようやく顔を向けた。
彼女の目は、私の簡素で楽な服装を舐め回すように見て、露骨な嫌悪を浮かべる。
「先に?」彼女は大声で鼻で笑った。
「このネックレス、十八万ドルよ」
彼女は嘲るように口元を歪めた。
「あなたみたいな、野良で名もないオメガに、税金すら払えるの?」
髪を払って、威圧するように匂いを強く放つ。
「私はクロエ・ハート」彼女は名乗った。
店中に聞こえるよう、わざと声を張り上げる。
「カエル・ヴォスの幼なじみで、パック公認の“未来のアルファ雌”よ」
一歩近づき、にやりと笑みを深めた。
「この街で“ルール”を決めるのは、ヴォス家だけ!」
私は彼女をしばらく見つめた。
なんて偶然。
カエル・ヴォス? 私が結婚するために来た相手、その当人じゃないか。
彼女と口論する気にはならなかった。
私はスマホを取り出し、叔母から渡されていたプライベート番号にかけた。
二回目の呼び出しで出た。
「あなたの女が、あなたの婚約者から婚約ネックレスを強奪してます」
私は端的に言った。
「どう片をつけるつもり?」
電話の向こうが、死んだように静まり返った。
謝罪か、せめて困惑が返ってくると思った。
だが返ってきたのは、氷のように冷たい声だった。
「誰だ、てめぇ」カエルが吐き捨てる。
「俺の私事に首を突っ込む権利がどこにある?」
私が名乗る前に、通話が切れた。
プツッ。
切りやがった。
画面を見つめる。なんという傲慢さだ。
クロエが甲高く、嘲りの笑い声を上げた。
「本当にカエルに電話したふりで誤魔化せると思ったの?」彼女は鼻で笑う。
腹を抱え、世界一可笑しい冗談みたいに笑った。
「あなたなんか、彼の連絡先にすら入ってないでしょ、この妄想女!」
彼女は手入れの行き届いた指で私を指した。
「婚約者だなんて名乗って。ほんと頭おかしい」
もう一度、私を上から下まで値踏みするように見て、唇を嫌悪で歪めた。
「ヴォス社のトイレ掃除の人のほうが、あなたよりまともな格好してるわ」
私は普段、派手な高級ブランドより、着心地を優先する。
まさかそのカジュアルさが、屈辱の武器になるとは思わなかった。
言い返すために息を使うのも無駄だった。
私は彼女の横をまっすぐ通り過ぎ、レジへ向かった。
「会計して」私は店員に言った。
店員は固まり、怯えた顔で動けない。
彼女は震える手で、私とクロエの間に視線をさ迷わせた。
クロエの笑みが凶悪に変わった。
彼女は歩み寄り、ガラスのカウンターにカードを叩きつけた。
黒と金の、パックVIPカード。
「そのカード、口座開設だけで百万円の預け入れが必要なの」クロエは得意げに言う。
静かな店内に声が反響する。
「金なしの野良! 自分の立場をわきまえて、見栄張るのやめなさい!」
ブティックには他のエリート・パックの面々もいた。
ささやきが一斉に広がる。
「謝りなさいよ」脇からベータの女が私に低く言った。
「クロエ・ハートよ。相手にしちゃダメ」
「ヴォス家が、あの女のやること全部に後ろ盾を付けてる」年配の男が呟いた。
「前に彼女の機嫌を損ねた奴は、取引先のネットワークを丸ごと潰された」
「一晩で破産だ!」
「土下座して許しを乞え! お前は野良オメガだ、ヴォス家には勝てない!」
室内の空気は恐怖で張り詰めていた。
だが、その警告の一つ一つが、クロエの巨大な自尊心をさらに肥大させるだけだった。
彼女は胸を張って私の前へ来た。顎を高く上げる。
私の間合いに踏み込み、濃い香水が喉を焼くように漂う。
見下ろす瞳には、毒々しい愉悦が満ちていた。
「聞いた? 野良」
彼女は悪意たっぷりに囁く。
「さあ、ひざまずきなさい」
デザイナーヒールのつま先の前、床を指差す。
「ここよ。みんなの前で」
腕を組み、重い圧を放つ。
「三回叫びなさい。
『私は身の程知らずの野良オメガです。自分の非を認めます』って」
唇が邪悪で勝ち誇った笑みに歪んだ。
「それができたら――生きてここを出るのを、考えてあげる」
