第3章
竹屋尊史は、一冊の小さな冊子を用意してくれた。表紙には『京都生活案内』と、彼の整った字で書かれている。
「いくつか良さそうな町家カフェと、食べ歩きにぴったりの甘味処をリストアップしておきました」
彼は冊子を開き、手描きの地図を指差しながら言った。
「特にこの『月影庵』という店のわらび餅は絶品ですよ。百年続く老舗なんです」
冊子を受け取ると、その細やかな手描きのイラストに私は驚かされた。どのページにも美しい京都の風景スケッチが添えられ、実用的な情報が書き込まれている。
「離婚弁護士の連絡先も最後のページに。僕の友人で、とても信頼できる人です」
彼の口調は穏やかで、まるで天気の話でもしているかのようだった。
「そうだ、東京のカフェは京都ではなかなか見つかりません。こちらの人はお茶を好みますから」
私は頷き、ノートに書きつけた。
『ありがとうございます。慣れるように、努力します』
それからの日々、私は竹屋の案内書を頼りに一人で京都の街を歩いた。
毎朝、彼が推薦してくれた茶寮か甘味処へ向かう。金閣寺から伏見稲荷大社まで、東京とは全く異なる京の空気を吸い込んだ。
この古都では、時間の流れが緩やかに感じられる。
古い寺社や伝統工芸の店を訪ね、時折、スマートフォンのメモにデザインのインスピレーションを書き留めた。
この三年で初めて、呼吸が苦しくない、と感じた。
ここに、留まってもいいのかもしれない。
東京のタワーマンションから、正式に荷物を運び出す日。
私が段ボールに荷物を詰めていると、スマートフォンが突然震えた。佐藤隆一からのLINEだ。
『連絡の一つもよこさないなんて、僕が誰だか忘れたのか?』
私は返信せず、自分のデザインのポートフォリオと、結婚前に誂えた着物を黙々と梱包し続けた。
数時間後、インスタグラムが隆一の投稿を通知してきた。写真には、彼が若い女性モデルと軽井沢の別荘のテラスでグラスを掲げて微笑む姿が写っていた。
添えられた文章にはこうある。
『会社が新たに契約したタレントです。彼女の活躍にご期待ください』
そのテラスに見覚えがあった。私たちが初めてデートした場所だった。
スマートフォンを閉じ、両親が遺してくれた骨董品の箱と、隆一から預かっていた佐藤家の一部の美術品を整理し始める。
この数年間、私はずっとこれらの品々の番人として扱われてきた。私達は同じ価値を持っているようだった——丁寧に飾られるだけで、決して本当に大切にはされない。
翌日、私は病院で定期検診を受けた。
医者は心理療法を続けるよう勧めてきた。
「緘黙症の回復には、安定した環境と、ご家族やご友人の愛情が必要です。根気よく続ければ、きっと良くなっていきますよ」
私は頷いたが、心の中では分かっていた。本当の癒やしは、佐藤隆一から遠く離れた場所でしか始まらないのだと。
彼の傍にいては、愛も安らぎも決して手に入らない。
離婚の前夜、私のスマートフォンが突然鳴った。佐藤隆一からの着信だ。
数秒ためらったが、結局電話に出た。
「桜」
彼の声は穏やかだったが、言い知れぬ不満が隠されているようだった。
「数日前、どうして急に京都へ旅行に行ったんだ? 僕には何も言わずに」
私は黙っていた。電話の向こうからは、会社の飲み会の喧騒が聞こえてくる。
「前に冷たくしたのは、ただ彼女への芝居だ。僕が君をどう思っているか、わかっているだろう」
彼は続けた。
私は依然として沈黙を保った。
彼の声のトーンが低くなる。
「忘れるな。君は永遠に佐藤家の人間だ。たとえ今、僕たちが離婚したとしても」
私は電話を切った。
翌日、佐藤隆一は遅れてやって来た。彼はスーツをきっちりと着こなしていたが、襟元には口紅の跡がはっきりと付着していた。それを隠そうとする素振りすらない。
調停が始まると、佐藤家がよこした弁護士は、双方ともに離婚に同意しており、異議はないとすぐに述べた。
事実、その通りだった。
佐藤隆一はテーブルの下で私の手に触れ、小声で言った。
「明日、サプライズがあるから」
私はノートを取り出し、書きつけた。
『佐藤さん、今夜八時に恒川レストランでお会いしてください。きちんとお話しする必要があります』
彼は私の呼び方——いつもの『隆一さん』ではなく『佐藤さん』——を見て眉をひそめたが、それでも頷いた。
夜八時、東京は突然の豪雨に見舞われた。
私は隅の席に座り、少し緊張していた。
元々は、正式に隆一に別れを告げるつもりだった。この三年の結婚生活が嘘に満ちていたとしても、円満な結末を迎えたいと願っていた。
しかし、雨音が激しくなるにつれ、窓の外の稲妻が両親の事故の日のことを思い出させた。
喉が再び締め付けられ、慣れ親しんだ恐怖感が全身を襲う。
八時半になっても、佐藤隆一は現れなかった。私のスマートフォンが不意に光る。彼からのビデオ通話だった。
繋ぐと、画面に映ったのは彼の顔ではなく、スマートフォンがテーブルに無造作に置かれたような、傾いたアングルだった。佐藤隆一の声と、別の男の会話が聞こえてくる。
「今夜、あの唖に会いに行くのか?」
と男が尋ねた。
「行かねえよ。外は雨だし、誰がそんな遠くまで行きたがるんだ」
佐藤隆一は笑った。
「この数年、あの唖と仲睦まじい夫婦を演じるのは本当にうんざりだった」
「あいつ、緊張すると話せなくなるんだろ? そんな出来損ないのデザイナーに何の将来があるんだ?」
「だが、顔はまあまあだ。少なくとも写真写りはいいし、うちの古臭い親戚連中をあしらうのには役立った」
佐藤隆一の声は酔いを帯び、揶揄するように言った。
「それに、味は悪くなかった」
周りの者たちの嘲笑が、私の手足を氷のように冷たくさせた。
指が震え、電話を切りたいのに、衝撃で動けない。
「おい、お前のスマホ、なんで光ってんだ?」
別の声が突然言った。
画面が急に切り替わり、佐藤隆一の狼狽した顔が映る。
「桜? お前——」
私は電話を切り、涙がどっと溢れ出た。
その時、『無声の友』のアプリが突然光り、『Inari』からボイスチャットの申請が届く。彼の声は穏やかで落ち着いていた。
『どうして返信がないんだ。なんだか調子が悪そうだけど、大丈夫か?』
私の指は震えて文字を打つこともできず、ただ涙を流すばかりだった。
数秒後、竹屋尊史の声が、優しく、それでいて力強く響いた。
「動かないで。今どこにいるか教えて。迎えに行くから」









