第1章
「新谷さん、おめでとうございます。ご懐妊ですね。もう2か月です」
個人クリニックの診察室。医師はにこやかに検査結果の紙を差し出した。
新谷卿華は薄い用紙をぎゅっと握りしめ、指先が白くなる。喜ぶべきなのに、胸の奥がざわついて、どうしても素直に笑えなかった。
立花真淵との子だ。
けれど――立花真淵が、この子を受け入れてくれる確信がない。
三年前、真淵は家の事情をやり過ごすために、卿華と契約結婚をした。結婚後、彼は贅沢な生活を与えてくれたが、関係を公にすることは一度もない。
三年の期限も、残り二か月を切っている。卿華は静かに離婚を待つつもりだった。なのに、子どもができたことで、初めて――幸せを望みたいという衝動が胸に芽生えた。
深く息を吸い、彼と話そうと決める。卿華は電話をかけた。
長い呼び出し音のあと、ようやく繋がる。
『忙しい。用なら帰ってからにしろ』
低い声。いつもの、取り付く島もない調子。
「数分だけ……少しだけ、時間をもらえませんか」
震える声を必死に押さえた。
返事が来る前に、受話口の向こうから甘く柔らかな女の声が割り込む。
『真淵、このレストラン、眺めがすごくいいね。ここからだと、街の夜景が全部見える』
卿華の胸がきゅっと縮んだ。
須藤郁夜の声。――帰ってきたの?
須藤郁夜は立花真淵の元恋人だった。海外での研修のために離れ離れになり、別れたと聞いている。けれど卿華は知っている。真淵は、ずっと彼女を忘れられなかった。
『気に入ったならよかった』
真淵の声が続く。卿華が一度も聞いたことのない、優しさを含んだ声音で。
次の瞬間、通話が切れた。
卿華はその場に立ち尽くし、体温がじわじわと奪われていくのを感じた。
どうやって立花家へ帰り着いたのかも覚えていない。スマホを開いた途端、目に飛び込んできた見出しが鋭く刺さる。
【立花グループ社長、深夜に元恋人と密会】
高級レストランで須藤郁夜と食事をする立花真淵の写真が添えられていた。画質は粗い。それでも、二人の距離が近いことははっきりわかる。郁夜は彼の肩にもたれ、指先でネックレスを弄びながら幸福そうに笑っていた。
コメント欄は祝福一色だった。
「須藤さんのネックレス、世界限定モデルじゃない? 動画でしか見たことない」
「立花グループの後継者とデートとか羨ましすぎ」
「須藤さん自身も優秀でしょ。学校の推薦で海外研修に行ったって聞いたし、今回戻ってきたらもっとすごそう」
「才色兼備のカップルだよね!」
卿華は文字を追ううちに、視界が滲んでいく。
彼は生まれつき冷たい人で、誰にも感情を与えないのだと思っていた。
違った。冷淡なのではなく――優しさを、別の誰かに全部渡していただけだった。
昼間まで抱いていた希望が、滑稽で仕方ない。
人に言えない妻の自分が、須藤郁夜に勝てるものなんてあるはずがない。
そもそも真淵が結婚を持ちかけた理由だって、卿華の目元が郁夜に少し似ていたから。
本物が戻ってきたなら、代用品が退くのは当然だ。
卿華はまだ膨らんでもいない下腹部にそっと触れた。胸が酸っぱくなる。
――ごめんね。来るのが、遅すぎた。
リビングで長く座り込んでいると、夜になり、鍵がかすかに回る音がした。
立花真淵が帰ってきた。
彼は照明をつけ、青白い顔でソファに座る卿華を見て足を止める。
「なんで灯りをつけない」
ネクタイを緩めながら、眉をひそめた。
卿華は顔を上げ、黙って彼を見る。
端正な顔には疲労が刻まれ、脱いだジャケットから甘い香水の匂いがふわりと漂った。
昼間の写真が脳裏に刺さり、鼻の奥がつんとする。卿華は思わず顔を背けた。
真淵は彼女を一瞥し、問う。
「昼、俺に何の用だった」
「……何でもない」
訝しげに視線を落としつつ、彼はシャツのボタンを外していく。
部屋着に着替えた真淵が卿華の前へ来る。シルクのナイトドレス越しに浮かぶ身体のラインに、目が細くなる。
彼は身を屈め、両腕を彼女の左右に突いて、ソファの隅へ追い込んだ。
首筋に温かな息がかかる。濃い酒気と、別の女の香りが混じっている。
「今夜は、ここでお前に付き合う」
掠れた声。露骨な含み。
この三年、彼が優しくなるのは、欲求を満たしたいときだけだった。
香水の甘さが胸を刺し、卿華の心臓がきしむ。
彼女は突然手を上げ、近づいてくる胸を押し止めた。勇気をかき集め、上目に見上げる。
「立花真淵……子ども、作りませんか」
真淵の動きが止まった。
ゆっくり身体を起こし、瞳の温度が一気に落ちる。
「言っただろ。俺は子どもが嫌いだ」
卿華は俯き、唇を噛む。
真淵は指先で彼女の顎を持ち上げ、嘲るように言った。
「俺たちは取引だ。余計な夢を見るな」
一言一言が、平手打ちのように頬を打つ。
――越えちゃいけない線を、越えたのは自分だ。
三年前、卿華は金が必要で、泣きながら真淵に縋った。
彼はそのとき警告した。金は出す。ただし三年の契約結婚。期限が来たら離婚。
卿華は慎ましく振る舞い、波風を立てないように生きてきた。
なのに、この子の存在が気づかせた。自分はいつの間にか、彼を愛してしまっていたのだと。
でも――だから何だ。
契約で結ばれただけの自分に、望む資格なんて。
瞳の光が少しずつ消え、最後には凪いだ闇になる。
真淵の手がさらに触れようとするのを、卿華はゆっくり押し返した。
「ごめんなさい。今日は……体調が悪いんです」
真淵は眉を寄せる。
三年で初めての拒絶。子どもが要らないと言ったからか。――甘やかしすぎたのかもしれない。
彼は興を失ったように鼻で笑い、「勝手にしろ」と吐き捨てて上着を掴み、部屋を出ていった。
がらんとした空間に一人残され、卿華はようやく崩れ落ちる。膝に顔を埋め、声を殺して泣いた。
くしゃくしゃになった検査結果の紙を見つめ、胸の奥が裂ける。
この子をどうするべきか――答えは出ない。
ただ、立花真淵から離れたい気持ちだけが、強く、強く固まっていく。
もう、返すべきものは返した。
歪んだ関係を終わらせたい。これ以上、惨めにならないために。
