第6章

「わかりました」

新谷卿華は電話を切り、指先の冷たさを噛みしめた。

道端に立ち、車の流れをぼんやり眺める。行き交うクラクションと光だけが、現実味なく耳の奥を滑っていく。

機械みたいな動作でタクシーを止め、告げた。

「立花本家まで」

道のりは長かった。窓の外、ネオンの帯がびゅんびゅん後ろへ流れていく。街のきらめきだけが遠のき、彼女だけが取り残されていくみたいに。

背もたれに凭れ、窓ガラスに映る自分を見る。血の気のない顔。目の奥に灯りのない、死人みたいな表情。

……力が抜ける。どう頑張っても、どうにもならない。そんな無力感が、胸の底からじわじわと湧いてきた。

立花本家に着いた頃には、夜はすっかり深かった。

彫りの入った鉄の門は開け放たれ、庭には高級車がずらりと並ぶ。屋敷の中は煌々と明るく、笑い声やグラスの触れ合う音が、かすかに漏れていた。

降りた拍子に、下腹部へずきん、と痛みが走る。

「……っ」

新谷卿華はドアに手をつき、呼吸を整えるのにしばらくかかった。ようやく背を伸ばしたときも、腹の奥が重く疼いている。

着ているのは昼間、市役所へ行ったときの生成りのトレンチコートのまま。石段で一日座っていたせいで、裾には皺が寄っていた。

この金と光の宴席には、あまりに場違いだ。

重い足を引きずるように、一歩ずつ。立花家の威厳そのものみたいな赤い木の扉へ向かう。

玄関の手前で、屋内から低い笑い声がいくつか聞こえた。

ノックしようと手を上げるより早く、扉が内側から開く。酒瓶を運んでいた使用人が顔を出し、新谷卿華を見るなり一瞬固まった。次いで、隠そうともしない侮蔑が目に宿る。

「おや、新谷嬢じゃないですか」

頭のてっぺんからつま先まで値踏みする視線。口調は甘いのに、刺のあるねじれ方をしている。

「もう何時だと思ってるんです? みんな待ってるのに。知らない人が見たら、食べに来たのかって思いますよ」

新谷卿華は、相手の嘲りを聞かなかったことにするみたいに視線を逸らし、淡々と言った。

「どいて」

その声の冷たさに、使用人の肩がわずかに跳ねる。反射的に身を引いた。

新谷卿華は無表情のまま玄関を抜ける。途端に、客間の喧騒がはっきり耳へ流れ込んできた。

立花本家の宴会場は、息を呑むほど豪奢だった。水晶のシャンデリアが眩い光を散らし、香水と酒の匂いが漂う。立花家の親戚や財界の客が、笑いながらグラスを掲げている。

そこへ新谷卿華が現れた瞬間、空気がわずかに揺れた。

談笑していた人々の視線が、示し合わせたように彼女へ集まってくる。

「ほら、新谷卿華じゃない?」

「よく来たわね。立花社長、須藤嬢のことで家のこと放り出してるって聞いたけど」

「その格好……立花家の顔に泥よ」

「まだ離婚してないのに、あれじゃね。そりゃ立花社長も相手にしないでしょ」

囁き声が、細い針みたいに耳へ刺さる。一本、二本ではない。無数の針が、肌の内側へじわじわ食い込んでくる。

新谷卿華は背筋を伸ばした。最後に残った尊厳だけを纏い、群れの間をまっすぐ抜けて主座へ向かう。

そして――主座の光景を視界が捉えた瞬間、足が止まった。

血が、音を立てて凍る。

立花真淵が主座にいた。いつもの近寄りがたい冷淡さは影を潜め、濃い灰色のスーツを端正に着こなし、どこかくつろいだ様子で座っている。

その隣に、須藤郁夜。

彼女は白いロングドレスを纏い、百合みたいに清らかな笑みを浮かべていた。手には赤ワインのグラス。幸福の香りだけを身にまとったような顔。

須藤郁夜は親しげに立花真淵へ寄りかかり、立花真淵の手は自然に彼女の腰の後ろへ回っている。

――まるで、そこが最初から彼女の居場所だったみたいに。

須藤郁夜が何か話すたび、立花真淵の口元がわずかに上がる。新谷卿華が一度も見たことのない、柔らかな表情。

周囲の親戚たちは二人を囲み、祝福と追従の言葉を浴びせていた。夫婦として扱うのが当然だと言わんばかりに。

新谷卿華は数メートル離れた場所で立ち尽くす。絵本の中へ迷い込んだ異物みたいに。

立花真淵が気配に気づいたのか、ふいにこちらを見た。視線が新谷卿華に触れた刹那、目の温度がすっと消える。残ったのは、露骨な苛立ちだけ。

「遅い」

眉を寄せ、冷ややかに吐き捨てる。

「躾がなってない」

須藤郁夜も振り返り、わざとらしく目を見開いた。すぐに立花真淵の腕へ絡みつき、可憐に笑う。

「真淵、そんな怖い言い方しないで。この方が新谷嬢よね? 病院では家政婦さんだと勘違いしちゃって……ごめんなさい」

丁寧で、隙のない言葉。けれどその一言一言が、この場に刻印する。

新谷卿華は余計者だ、と。

新谷卿華は唇だけで笑った。

「気にしません」

どうせ、立花家の人間にとっては、家政婦と大差ない。

立花真淵は何も言わない。彼女の立場を説明することもない。ただ視線を引き、須藤郁夜へ戻した。

その仕草が、目の奥を焼く。

手のひらを握りしめる。爪が食い込み、痛みが走る。その痛みだけが、意識を繋ぎ止めてくれた。

これが、彼の言う「もっと大事なこと」。

とっくに諦めたはずだった。それでも目の前の現実は、心臓を勝手に痙攣させる。

傷口をこじ開けられ、塩を擦り込まれて、それでも笑って見ていろと命じられるような痛み。

立花真淵――これが、あなたの用意した結末なの?

シャンデリアの光は眩いのに、どこまでも冷たい。談笑する客たちは、絵の中の人物みたいに遠い。

須藤郁夜の白いドレスは汚れ一つなく、立花真淵の腕は彼女の腰を守るように据えられたまま。揺るがない所有と偏愛の宣言。

称賛の声が波のように押し寄せる。

「立花殿と須藤嬢は本当にお似合いですね。三年経っても変わらないなんて、羨ましい」

「須藤嬢が戻られたんだもの。立花グループにも、ようやく奥様が――」

誰も言葉を選ばない。名目上の妻がそこに立っていることすら、存在しないものとして扱う。

立花真淵はただ、隣の女を見下ろした。口元に薄い弧。否定も、説明もない。

その沈黙が、須藤郁夜の居場所を正式にする判子だった。

新谷卿華は人垣の端で息を殺す。腹の奥が、どろりと重くうねり、鈍い刃で引き裂かれるように疼いた。

青白い顔。古びた生成りのコート。豪奢な衣装に囲まれて、ひどく、ひどく浮いている。

前のチャプター
次のチャプター